「構築された状況」から「構築されていく状況」へ。

yet untitled

by Tino Sehgal ティノ・セーガル 

Place: 小田原文化財団 江之浦測候所  
Period: 2019 年10 月4 日(金)~11 月4 日(月・休)


秋の繁忙期を乗り越えた週末を無駄にしないようにと、10月20日は江之浦測候所の予約を入れていた(それも午前の部)。実は初来訪だった。常設なのに気がむいた時にいつでも行ける場所ではない「アポイント」が必要という条件がゆえに、いつ行くか決めかねていた。ずっと「決定的」になる理由を探していたのだけど、「ティノ・セーガルを招聘し、開館以来初となる、現代アートプロジェクトを開催いたします。」という小田原文化財団のニュースを見て、直ぐさま今秋に訪問することを決めた。

ところが、台風と秋雨が累々と、秋晴れを奪っていく今年の秋。秋はもう行楽シーズンではないのかもしれない。少なくとも、環境危機(クライメット・クライシス)は、もう他人事ではないという自覚はある。まだ認めることができないのだとしても…この日も天気は曇り。前日までの豪雨を思い出すと、それでもラッキーな方だったかもしれないと諦めていたが、オリエンテーションが終わった頃から晴れ間が見え始めた。つくづく天気だけには裏切られない。今回はティノ・セーガルのプロジェクトを鑑賞した記録を覚書として綴りたい。

まず、ティノ・セーガルは、「もの」としての作品・展示は一切行わず、彼が「構築された状況」と呼ぶ、作家の指示に基づいたパフォーマーの動きで観客をある体験に誘う作品で知られる。(1展示場所と聞かされていた野立席のエリアに辿り着いた時、既にパフォーマンスは始まっていた。少なくとも、今回のパフォーマンスには、明確なはじまりとおわりは無いようだった。パフォーマーは2人。立ち上がることはなく、目を瞑ったまま、それぞれが囁くような声で歌う。視覚を遮ることで研ぎ澄まされた知覚によって、地から伝わるエネルギーや周囲の環境からの影響を身体に漲らせてゆく。遠くから見ると触れ合っているように見えた彼らの身体が直接触れ合う時間は僅かだったが、彼らの身ぶりや歌は、微かに交差しながら、それぞれがそれぞれの意識/宇宙の中に潜っていくようだった。

抽象的な歌声の中に、ふと聞き覚えのある旋律も聞こえてくる。Destiny’s childの “say my name”。たまたま見つけた午後の回を鑑賞した方の感想にも、同じことが書いてあったので、即興的な選曲ではなかったのかもしれない。他にも何か具体的な曲が指示されていたのだろうか?Tino Sehgalからパフォーマーへの指示は何だったのだろう?

急に雲が開けて、日差しが強くなった。それと同時に、鳥の声も訪れた。心地よい囀りというよりも、何かこの平穏な空気を乱すような騒がしい群れの声だった。閉じた瞼を貫く眩しさと喧噪の中、パフォーマーは何をイメージしていたのだろうか?眩しさに耐えられなくなって同じく目を閉じた私の頭には、闇の中に無数の星が輝くランドスケープが浮かんだ。

それは、ほんの一瞬の即興的な出来事(イヴェント)だった。鳥による干渉が過ぎ去ると、また静かで穏やかな空間に戻った。煎茶を頂きながら、またしばらく眺める。蜜柑畑をめがけてやってきたと思われる白蝶も時折よぎる。借景ー陸と地平線の間で水平の線を描くように色が変わっていく海、向いの丘に建つ謎の建物、海岸沿いの国道を途切れることなく流れる自動車ーとパフォーマーの間でフォーカスをシフトさせながら30分は眺めていただろうか・・・

休止(ポーズ/インターミッション)は訪れた。次なる介入は毛虫だった。恐らく背後の畑から上がってきたのだろう。男性パフォーマーに、音を立てず、ゆっくりと忍び寄ってくる。彼がどうするのか注視していた。パフォーマンスに集中するあまり、気づかないんじゃないか?という心配もどこかにあったから。ところが、知覚を研ぎ澄ませる状況に身を置く彼が気づかないはずなどなかった。動きの中で、砂利に紛れた小枝を見つけ、それに毛虫を伝わらせていく。屈みこみながら毛虫と静かに格闘する身ぶり。私の場所からは一部始終が見えていたが、他の角度から、或いはもっと遠くの場所から見ていたら、ゆっくりと立上がる動きの一部として気に留められることもなかったのかもしれない。

重心の低い動きが能を思わせるから、という以前に、あまりにも美しい光学硝子の舞台に惑わされ、この舞台が使われないことを残念に思ってしまうが、これがパフォーマンスアート(≠パフォーミングアーツ)であるという前提に則れば、展示場所が能舞台や石舞台などの「舞台」でないことは言うまでもない。この場所自体が“Appoint”が必要という意味では舞台的な場所であったとしても、開館中はいつでもパフォーマンスが行われている“Opening hours”(2という原則で進行していくことを考えれば、舞台という場所であってはいけないのだ。

『私の作品は4次元で、写真のように2次元の作品ではありません。』(3という彼のインタビューを読んでから、彫刻を3次元とした場合、もう1つの次元は何なのか?をずっと考えていた。パフォーマーという生身の人間がメディアとなることで〈動く〉ということ?でも、そうするとキネティックアートのような動く彫刻と同じなのか?いや、違う。今回のパフォーマンスを目撃して、直感的に4つ目の次元は〈時間〉に集約されるのではないかと感じた。xyzの座標で定義される3次元に〈時間〉という漠然とした要素を持ち込むのはタブーなのかもしれないけど… いまここ。不可逆で再現不能な時間のただ中にあって、その瞬間の環境という予測不能な外部の介入も不可分な要素として進む「状況」そのものが作品となる。だから、その場にいた誰かの記憶として言葉にすることができたとしても、アーカイブとしての写真や映像は成立し得ないのだろう。

日本建築の伝統的な工法の結晶とも言える、時空を超えた建築空間の中で、見えない何かに触れていくような身ぶりと瞑想的なハミングによって、ここにいるのに、いまここにはいないような宙ぶらりんにされた時空へと誘われる。

私も時空を歪ませてみたくなって、井戸に落ちる光の中で、そっと手を動かしてみた。


参照

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