ヴェネチアビエンナーレ2019【テーマ展示編】

ヴェネチアビエンナーレレポート第2回。

今回は、テーマ展示の作品についてご紹介。前回の記事で述べたように今年の特徴は、同じ作家が2つの異なる視点の作品を2つの会場にそれぞれ展示(ほぼ全員)しているということ。(propositionAをアルセナーレにpropositionBをジャルディーニに。)私はいつも作品を見る前にキャプションは読まない。(否が応でも目に入ってくることもあるが…)説明されずとも作品の意図を読み解くことができるか、こちらも作品に挑むのである。じっと〈みる〉ことから鑑賞はスタートする。そして答え合わせのようにキャプションを読み、作家と制作意図についての理解を深める。そのため今回の展示方法では、ファーストインプレッションで印象に残った作家が、アルセナーレの展示とジャルディーニの展示で微妙に異なっていた。というのが後から振返ってみると自分でも面白い発見だった。もちろん、同じ作家だとすぐに分かる作品もあったが、個人的に印象に残ったのは、作風やメディアが一見異なるように見える作品を展示していた作家の方だったように思う。

例えばAの作品は印象に残ったが、Bの作品はあまりよく理解できなかったという場合も、もしかしたら根底にあるのはAとテーマは同じで、作品にするまでの文脈付けのプロセスが異なっていただけかもしれないと、Bの作品に対する考察を深めることができる。人との関係に例えると分かりやすいかもしれない。何かひとつでも共通項というか、自分が興味を持って歩み寄ることができる接点を見つけることができたら、その人の別の側面も知りたくなるものだ。たとえ、作家の描く世界が全く想像できないものだったり、その人の考えは自分とは相容れないものだったりしても、なぜ〈わからない〉と感じてしまったのか、それを少しでも考えることができたなら、自分とは違う事物の見方を少しでも知ることができたなら、それで良いのではないだろうか。そもそも、複雑な世界を生きるコンテンポラリー〈同時代〉な作家や作品も複雑なはずで、一瞥しただけで〈わかる〉と一言で片付けることは可能なのだろうか? 初見やタイトルでは意味不明だったとしても(誰かのレビューが低かったとしても)、作品に無関心になったり、無視をしたりすることが1番浅はかなことかもしれない。

出展作品全体の傾向分析は、専門誌のジャーナリストのレビューを読んでもらえればいいので(もちろん第4回で少しはまとめるつもりだが)、この記事は、なるべく1つ1つの作品を〈みる〉ための解説メモになることを願う。ここでピックアップする14名は、私が個人的に気になった、もしくは誰か(個人を思い浮かべながら)に伝えたいと思った作家であって、全員ではない(かなり偏ったセレクトかも)こと、専門的見地からの評価の良し悪しは考慮に入れていないことを断っておく。

1.Haris Epaminonda

N./B. 1980 in Cyprus Lives and works in Berlin(F)

A=VOL.XXXVⅡ,2019(Mixed media installation)
B=Chimera,2019(Digitised super 8 film,colour, sound; 32’34”)

歴史的意味と個人的な出来事を綯い交ぜに「コラージュ」することで紡がれる叙情詩。

A=さまざまなオブジェが配置された異なるシーンが数カ所点在している様子は、演劇の複数のシーンのセットを見ているようでもある。オブジェには、見つけられた(歴史的に何らかの意味ある)ものと、作られたもの(作家にとっての個人的な意味しか持たないもの)が混在しているが、どちらがどうか区別することは難しいだろう。そういった単純に判断できないオブジェを選ぶことで、何通りもの見方や解釈ができる場を開拓しようとしているのである。

B=時・場所・記憶について思索された、実験的なオーディオビジュアルのトラベローグ(旅行紀)。太陽の光、その影を追いかけながら、映像は視覚的な蜃気楼のようにふるまう。砂漠やシマウマなどの部分が映し出される。そのものを見ているというよりも、光の移ろいと自然の肌理を見ているようだ。作品の始まりは、数年前にカリフォルニアの砂漠周辺で撮影したフィルムのフッテージ。しかし、そのフィルムの大部分が現像の最中に損傷を受けてしまった。救出されたフィルムは、他の旅で撮影されたフッテージを繋がれながら、現実と幻想、自然と文化、光と闇の間を揺れ動く。(「キメラ」はギリシャ神話で火を噴く、頭は獅子、体は山羊、蛇の尻尾を持つ怪物。)


*銀獅子賞を受賞。
*2019年7月6日ハラ・ミュージアムアークでトークイベントを実施
*ゲーテ・インスティトゥート2017年「若手アーティストのための国立美術館賞」関連記事

2.Otobong Nkanga

N./B. 1974 in Nigeria Lives and works in Antwerp(F)

A=Veins Aligned,2018(Marble Lasa Venato Fior di Melo®, Murano glass and paint)+A LAPSE, A STAIN, A FALL,2018(Poem engraved on Marble Nero Marquina)
B(left)=Escape,2018(Acrylic and crayon on paper)

アントロポロセン(人新世)における、人間と壮大な自然(資源)の関係性をミニマルに有機的に描く線。

B= 宝石のように美しい色彩と、理路整然としたダイアグラムのような構成のコントラスト。ドリーミーなようで現実的(そして暴力的)。鉱石(天然資源)、エネルギー、もの、人間の交換や動きをテーマに、人間の身体と地球とのつながりを描き出す。事物と行動は分離して存在することはできず、互いに結びついていて、影響を及ぼし合っているのだ。「ドローイングは想像上の世界。しかしそこでは、あらゆる場所で現実に起こっていることが交差している。」

A= 自然は、人間を育み人間に必要なものを供給してきたが、人間によって強奪され、傷跡が残され、毒されてきたとも言える。地球から採掘された素材を用いて有機的な身体のようにランドスケープを描く。手書きの線にも、川の流れにも見える作品は静脈を表している。ガラスと大理石で作られたこの静脈の長さは約26mにも及び、大理石全体を巡るようについた曇り傷は化学的な汚染を仄めかす。天然資源の利己的な搾取についてのコロニアルやポストコロニアルの問題を超えて、彼女は周期的で大きな時間の広がりを問うメタファーを鉱山に見つけたのだ。「掘って、掘り起して、そしてその上に建て続ける。それから、また崩壊して、何か新しいことが始まる。歴史はそんな穴のようなもの。」

*特別表彰者受賞者(2名)のうちの1人。

3.Laurence Abu Hamdan

N./B. 1985 in Jordan Lives and works in Beirut(M)

A=The whole time there were no land mines,2017(8 video loop on monitors with sound)
B=Walled Unwalled,2018(Single channel video installation, color, sound, 20min)

「壁」を行き交う音によって政治的な問題を顕在化する「耳」としての映像作品。

A=第3次中東戦争以降、シリアとイスラエルは依然としてゴラン高原の領有権を争っている。停戦ラインを行き交うことは許されておらず、境界の両側にいる家族やコミュニティは分断されたままとなっている。しかし、「叫びの丘」だけは地形のおかげで、音だけは境界を超えて行き交うことができるため、離ればななれになった家族はここ集まり、お互いの声を聞き、対岸に向かって手を振っている。本作は、この「叫びの丘」で収録された音声を題材にした映像作品だ。2011年5月15日、シリア側の「叫びの丘」に国内中からNakba(1948年にイスラエルが建国された際、70万のパレスチナ人が難民になった大虐殺)の記念日のために大量の抗議者が集まってきた様子を写している。しかし、この丘にいつも人が集まる時とは様子が違う。シリアから来た150人のパレスチナ人がイスラエルの領域に進入したのだ。停戦以来初めての出来事だった。本作は、イスラエル側にいた匿名の人物によって携帯電話で撮影されていた映像と音声で構成されている。映像には、越境してきたパレスチナ人が村人たちに迎え入れられようとする様子が映っており、音声には、国境付近に埋没したままになっている地雷を危惧してシリア側から叫ぶ声が収録されていた。後にイスラエル軍によって抗議者のうち4名は殺害されてしまい、大半は戻る権利を行使するという結末になったそうだ。

B=3つの連なった収録スタジオを往来しながら作家自身がさまざまな判例を語るモノローグ。スタジオのガラス越しに彼を見るように、透明のスクリーンに投影された映像を通してその様子を見る。私たちと彼の間には超えることの出来ない壁があるように思われるが、彼の声を聴くことはできる。X線を通して見えないはずの壁の向こう側のものが見えるようになったように、目に見えない粒子は壁を貫通することができるように、表面上は強固に見える壁も、情報はその構造を超えることができるのではないか。「私たちはみな壁であるが、壁というものは本当は無い。」この作品は東ベルリンの音楽スタジオで制作された。ここではかつて、東ドイツ州のラジオが放送されていた。

*2018年にターナー賞にノミネートされた「フォレンジック・アーキテクチャー(Forensic Architecture)」とも恊働した経験を持ち、彼自身も2019年のターナー賞にノミネートされている。

4.Antoine Catala

N./B. 1975 in France Lives and works in New York(M)

A=The Heart Atrophies,2018-2019(Mixed Media)
B=It’s over,2019(9 suction panels, pumps, tubing, controller box)

文字や記号が自らコミュニケーションしたら人はどう反応する?プレイフルな認識実験。

A=陸に打ち上げられた魚のようにピクピク動くのは、チューブに繋がれたシリコン製の〈A〉。ダサカワな〈トロフィー〉柄のニットセーター。ピクトグラムのように「綴られた」これら4つのオブジェを見て、それぞれ何を想起するだろうか?このインスタレーションでは、記号がどうコミュニケーションするかを問う。現代版の判じ絵(絵や記号で表されたものから、元の語を当てるクイズ)は、伝達方法が複雑化していく記号に適応していくために、人間はどのような関係を築きながら進化するのかという疑問を投げかける。ちなみに、Theは建築や公共の場所に描かれる。Heartは広告に関わる。Aは科学に結びつく。そして、Trophiesはファッションのおまじない。「もし中世の人間が今の時代に送り込まれても、彼らはきっとスマートフォンを一週間で理解するだろう。」

B=パステルカラーの9枚の大きなパネル。よく見ると、膨らんだり萎んだりしている。それぞれに記された言葉やサインまたは絵文字が、萎むと露わになり、膨らむと見えなくなる仕組みだ。彼はメッセージそのものではなく、メッセージの伝達方法に注意を向ける。膨張と収縮のリズムは、作家によって注意深く振り付けられている。つまり、サインに記された文字は、個別に現れることもあれば、まとまって出現することもあり、その順列によって複数の意味を呈することになる。パステルカラーは穏やかでポジティブな感情を呼び起こすだろう。言葉を伝えるためには、空気を抜く、つまり窒息させなければならないということに気づくまでは・・・

5.Shilpa Gupta

N./B. 1976 in India Lives and works in Mumbai(F)

A=For, in your tongue, I cannot fit,2017-2018(Sound installation with 100 speakers, microphones, printed text and metal stands)
B=Untitled,2019(MS Mobile gate which swings side to side and break the wall)

見えない境界や権力への抵抗を、観客自身も身体を通して感じるインスタレーション

A=「あなたの言語の中にあって、私は適合することはできない」は検閲の暴力に問題を投げかける。詩の一節を朗読した声で紡がれるシンフォニー。引用されている100作の詩は、7世紀から現在までの間、政治的に捕えられた作品である。朧げな薄明かりの部屋に規則正しく吊り下げられた100台のマイク(スピーカーとして機能)。様々な言語で行われる朗読(アラビア語、アゼルバイジャン語、英語、ヒンドゥー語、ロシア語を含む)は、どの言語を理解できるかによって、かわるがわる聴く人を受け容れたり、排除したりするサウンドスケープをつくり出す。詩の一節はマイク直下の紙に記されていて、誰かに黙読してもらったり、自分とは身体の分離した誰かの声で共鳴するように繰り返し唱ってもらうのを待っているかのようである。

B=何かを破壊するような暴力的な音が繰り返し会場に鳴り響く。ギャラリーの壁を激しく打ち付けながら、自発的に開閉する機械仕掛けのゲートは、安全のために私道の前に設置される住居用のゲートがデフォルメされたものだ。やがて壁にはヒビが入り、そして割れていく。国家、民族や宗派間の断絶、監視構造に介在しているゾーンについて、つまり合法と違法、所属と孤立の間の定義について探求する。ゲートはどこか意志のある人間のようなものとして、脳裏から離れない存在になるだろう。身体的、あるいはイデオロギー的な存在の境界に目を向け、抑圧的な機能について明らかにする。

*森美術館、グッゲンハイム美術館にコレクション。kvadratともコラボレーションしている。

6.Sun Yuan & Peng Yu

Sun Yuan N./B. 1972,Peng Yu N./B. 1974,both from china,live and work in Beijing

A=Dear,2015(Air pump, air tank, hose,chair)
B=Can’t help myself,2016(Kuka industrial robot, stainless steel and rubber, cellulose ether in coloures water,lighting grid wigh Cognex visual-recognition sensors, and glass wall with aluminum frame)

猟奇的な機械の動きに人間じみた哀愁を感じずにはいられない機械じかけのインスタレーション。

A=謎の轟音が定期的に鳴り響く展示室。歴史博物館の展示のようにアクリルケースに入れて展示された巨大な白いシリコン製の椅子がある。いつもと違うのは、その椅子をゴム製のホースが鞭のように暴力的に打ち付けていることだ。椅子の形は、ワシントンのリンカーン記念堂でリンカーン像が鎮座する椅子のような、何となくローマ帝国の椅子を模した形になっている。彼らのインスタレーションには、腹の底にこたえるような、おびえさせるようなスペクタクルな演出がよく含まれる。最近の作品では、作品を見る観客を見るという行動も作品の構成要素となっているそうだ。人間のS/M嗜好を想起せずにはいられない…

B=こちらで透明なケース「ケージ」の中に入れられて見せ物になっているのは、産業用のロボットーロボットアームだ。自分の周りに広げられた、血液のような赤い液体を集めていく機械。もじもじと回転したり曲がったりする様子は、まるで捕えられて展示された生き物のようである。ロボットには32の異なる動きが「教え」られており、「かゆいところをひっかく」「馬鹿っぽく体を揺り動かす」といった、薄気味悪さを覚えつつ、どこか人間の愛嬌を思わせる動きが含まれている。集めても集めても、絶え間なく滲み出てくる制御不能な液体は、束縛されたり固定されたりすることを拒み、反抗的でとらえどころのない、彼らがアートの本質だと考えるものへの知覚を呼び覚ますものなのである。本作のオリジナルはNYのソロモン.R.グッゲンハイム美術館で開催されたTale of Our Time展のために制作された。

7.Stan Douglas Gupta

N./B. 1960 in Canada Lives and works in Vancouver(M)

A=No record
B=Doppelgänger,2019(Two-channel video installation)

過去・現在・未来の歴史(それが真実だと信じられている事象)を思索的に再構築する映画的作品。

A=もしかしたら、世界で起こった枢軸となる出来事も、まったく異なる順番で起こったかもしれない ―「思索的な歴史」について探求する。本作では、もし現在のNYから電力が完全に無くなったら、どんな物理的な影響が生じるのか?緊急事態にどう人々が振る舞うか?と想像を巡らせる。ブラックアウトしてしまいそうな、パノラマビューの街の風景を、機知に富んだシーンが追従する。エレベーターに閉じ込められた孤独な女性は、野菜油脂の缶と靴ひもから蝋燭をつくる。そこでは、略奪品、窃盗、暴力など様々な程度の悪事が働く。ダグラスは写真を「イメージの動かない映画」と捉え、映像と同じ手法で写真も撮る。だから、この写真で描かれた世界も、巧妙に台本化され演じられたものなのだ。

B=鏡のように2対になった正方形型のモニターに映し出されたハリウッド映画さながらの映像は、複雑な隠喩の連鎖にとって構成された、始まりも終わりもない物語である。本作の出発点となったコンセプトは理論物理学で言うところの<量子もつれ>。2つの粒子が密接に結びついていて、空間的に離れて存在していたとしても、同じ存在を共有している時に起こる不思議な特性のことらしい。数光年離れた世界で発生する、2つの別の現在から始まる出来事を描く。ある1人の宇宙飛行士アリスが、量子テレポーテーションでの伝送を試みる。その時、もつれ状態の双子(エイリアン)も、「本物の」宇宙飛行士と、まさに鏡になった経験をすることになる。彼女たちはお互いに、新しく住んだことのない惑星へのテレポーテーションに失敗したと思うのだが、実際は彼女たちが元の世界で知っていた全ての物事が反転した世界に到着したということなのだ。

*オペラシティギャラリーやPARASOPHIAで展示実績有。

8.Augustas Serapinas

N./B. 1980 in Lithuania Lives and works in Vilnius(M)

A=Chair for the Invigilator(brown),2017-2018(Metal, fabric, plastic seat)
B=Vygintas, Kifilas & Semionovas,2018(Used wood and part of the Ignalina Nuclear Power Plant building)

人間が生み出してきた人工物や出来事を題材に、人間の機微をランドスケープとしてサイトスペシフィックで即興的に描き出す。

A=アルセナーレとジャルディーニそれぞれに会場に点在しているタイプの作品もあった。アルセナーレには海水浴場にあるライフガード用の椅子のようなタイプの椅子が点在している。もちろんこの椅子に座る人のミッションは、海で泳ぐ人を見守ることではなく、作品や鑑賞者を見下ろしながら看視をして、必要があれば質問に答えることだ。展示空間内にスタッフ用の椅子があること自体はふつうのことなのに、ここにはやや相応しくないタイプの椅子があることで、展示空間がシアトリカルに見えてくる。スタッフさえもパフォーマンスの一部であるように感じられてしまう。制服を着ていても人混みに埋もれてしまいがちなスタッフを見つけてもらうのに役立つかもしれないが、いずれにせよ、日常的なものが間違って展覧会場に入ってきてしまったようなちょっと可笑しな状況だ。彼は「いつもとは違う視点をつくることに興味がある。いくつもの視点をもつことが多様性に繋がるのに、一般的な制度やアートの世界ではいつも欠けている…私はいつもこういった〈glitch-日常の中のバグ〉を探している。」と言う。

B=不安定に積み重なった不規則なかたちのコンクリートの塊は、単なる積み木のようにも見えるが、故意にスケールを変えて見ようとしなくとも廃墟を見ているようだ。建築的なエレメントや隠れた歴史的・社会的関係を露わにすることで、そうでなければ隠蔽されてしまうような、人工的なランドスケープについての私たちの理解を。原子力発電所に関連したリトアニアの負の遺産に取り組んでいる。1986年のチェルノブイリの悲劇の後、6000人ものリトアニアの人々が5年間除染作業に参加するために現地に送りこまれた。国営のIgnalina原子炉(チェルノブイリモデルで建設されていた)は、2004年にEUに加盟する条件として廃炉となった。お荷物になった過去の遺物から魅力的な未来を描こうとする。Ignalina原子力開発所から採取された(汚染されていない)素材でローテーブルと積み木のおもちゃを作った。タイトルにつけられている3人の名前はこのおもちゃで遊んだ3人の子ども。この積み木のように、次の世代が新しい社会構造を作っていくのだ。

*今回の出展作家の中で最年少。

9.Alex da Corte

N./B. 1980 in USA Lives and works in Philadelphia(M)

A=Rubber Pencil Devil,2019(HD digital cideo, plywood, canvas, vinyl, hardware, medium density fiber board, LCD monitors, speakers, neon, aluminum, carpet, sound)
B=No record

資本主義社会で大量生産されたイメージの影響力を愛でながらもアイロニーに問うカラフルでイマ−シブな世界。

A=ハイブローとローブローのカルチャーの文化的レファレンスが同時に吹き込まれるアメリカ事情の目まぐるしさを伝えるポップな映像作品。おなじみの様々なキャラクターが登場するが、なぜか催眠にかけられたような、0.5倍再生されたような、のろまなコレオグラフィーで演じる。20・21世紀のカルチャーの歴史、つまりパペット・マンガ・広告・ミュージカルといった架空の現実から引用した57の演技で構成される映像作品。しかも、主にアーティスト自身がキャラクターに扮している。ダフィーダックは意地悪で、バートシンプソンは愛煙家で、巨大なケチャップボトル(の着ぐるみを着た作家)がダイナマイト片手に踊り、自由の女神は郊外の家からテレビを盗む。この虚構の文化的ペルソナによって作られた万華鏡のような作品は、神話と歴史の間の線引きが集合的プシュケー(=集合的無意識)の中で曖昧にされてきたことを強く訴えかける。


B=記録無し(ロードサイドに立ち並ぶ、バーガーキング・ダンキンドーナッツなどのお馴染みチェーン店の巨大な電工看板が、どこかのある街を模した模型に所狭しと並んだ作品。作品解説としては、ロバート・ヴェンチューリの名が引用されていたことだけを記憶しているが、確かに名著『ラスベガス』のアイコニックなダックの建築を思い出すような、リアルなアメリカの日常風景みたいなものが。)

*St.VincentのPVなども手がける。

10. Ed Atkins

N./B. 1982 in United Kingdom Lives and works in Copenhagen and Berlin(M)

A=Old Food ,2017-2019
Comprising
Good smoke, 2017
Good bread, 2017
Good wine, 2017
Good boy, 2017
Good man, 2017
Neoteny in humans,
up/down, in/out, 2017
Untitled, 2018
Video loops with…(Mixed media)など
B=bloom

実体なき世界で生きる絶え間ないトラウマを背負わされたアバターのハイパーリアルな物語。

A=大劇場の舞台裏さながらの衣裳が詰まった巨大なクローゼット。古代の壁画を切り出したかのようなパネル。退廃的な空間とハイパーリアルなCGI映像のコントラスト。ここはデジタル上に作り出された偽の歴史的世界。牧歌的なランドスケープと止むことのない破壊を描いた小作農を題材にした映像の世界に住むCGIのモデルは、アーティストの声が吹き込まれ、体のモーションキャプチャによって生命を吹き込まれた彼のアバターだ。つまり、ヴァーチャル世界での激しい痛みを伴うセンチメンタルなシナリオを無理矢理押し付けられた「感情破壊テストのためのアバター」という訳である。ひっきりなしに涙を流すキャラクターの救済無き人生。毒々しいファストフードの広告の食材のように扱われた人や物が折り重なっていく、食べられないサンドイッチ。展示スペースにぎっしり並んだオペラの衣装は、映像の中には肉体が無いということ、オペラの中ではロマンチシズムとノスタルジアと無知によってドラマチックに歴史が容認されてきたことを象徴している。Contemporary Art Writing Dailyに掲載された匿名の批評の情報が記されたパネルも、誰も疑うことのなかった制度上の権威が急激に傾きつつあることへのパロディとなっている。食べ物や人間も古くなる(腐ったり、死んだりする)ことはないデジタル世界の物語にOld Foodというタイトルはミスマッチに感じられるが、人間が作り出す実体なき世界への不安や苦しみをアイロニックに現しているのかもしれない。

B=記録なし。
(ジャルディーニの会場には、人面蜘蛛とでも言うようなモチーフが描かれた絵画作品が点在している。細かい線画の神経質な雰囲気がその奇妙さをよりいっそう強めており、思わぬ所で突然目に入ってくる恐怖や煩わしさには、パンデミックや監視社会を思わずにはいられなかった。)

11.Terek Atoui

N./B. 1980 in Lebanon and works in Paris(M)

A=The Ground,2018(Mixed media)
B=No record

音の〈メディア〉としての可能性を拡げる、自作の楽器とプログラムによって奏でられたサウンドスケープ。

A=工芸品のようなオブジェとコンピュータが並ぶ展示室。音楽とコンテンポラリーアートの間で、参加可能で協同的な音楽パフォーマンスを通して〈聞く〉という観念の拡張を試みる。洗練された音を生み出すために複雑な環境を想像し、コーディネートする。インスタレーション、パフォーマンス、コラボレーションを通して、パフォーマー自身と観客の予想を裏切っていく。本作は、彼の中国の珠江デルタの旅から作られた。現代と伝統がミックスした、この地域での農業、建築、音楽についての滞在中の観察記録:メモやドローイングに基づき、職人と楽器メーカーに楽器製作を依頼した。完成した楽器は展覧会の中で、それぞれ別々に、自動的に音を奏でるように彼自身がプログラムしている。そこでは、様々なジャンルのアーティストやミュージシャンが作品のかたちや音に応えてみたくなることだろう。

B=記録無し。

12.Nairy Baghramian

N./B. 1971 in Iran and works in Berlin(F)

A=No record
B=Maintainers,2019(Casted aluminum, painted aluminum, cork, styroform, paraffin wax)

さまざまな素材が歴史の中で担ってきた役割を問う、不安定に安定する絶妙なバランスの彫刻作品。

A=記録無し。

B=機械的なフォルムと擬人的なフォルムとを融合させることで制作された、複雑で不安定な彫刻作品。相互に依存した要素のコラージュ。黒くラッカー塗装された細い支柱から伸びたコルクと、コルクを支えるアルミニウムのバーによってこの巨大なワックスのフォルムはかろうじて自立している。彫刻の歴史において、ワックスはキャスティング、モールディング、磨きで要となる役割を果たしてきた。しかし本作では、ワックスで磨れるはずのアルミニウムは陰の支持体として読み取ることができる。これこそが素材の関係性を問う重要な点である。ワックスがメタルを「支える」、その過程でワックスが少しずつ消耗していく、その前の静止の瞬間。硬くて頑なフォルムのコラージュによって、素材による支持と重力の作用の間に生じるダイナミックな緊張感に生気を与える。コルクやラッカー塗装の支柱がなければ崩壊してしまう可能性を孕んだ作品なのだ。微かに触れているような、触れていないようなコルクとワックスの関係性は、どこか人間同士の微妙な距離感をも感じさせる。

*PARASOPHIA出展

13.Avery Singer

N./B. 1987 in USA Lives and works in New York(F)

A=
Untitled, 2019
Self-portrait(summer 2018),2018明日
Calder(Saturday Night), 2017
(Acrylic on canvas stretched over wood panel)
B=No record

身近なデジタルツールとその身振りを使ったマークメイキングとしてのドローイング。

A=彼女の制作過程はこうだ。まず3Dモデリングのソフトウェア(SketchUpなど)を使ってデジタル上で構成を決め、それをキャンバスにプロジェクションし、エアーブラシで描く。アートにおけるアナログとデジタルの線引きをどこにすれば良いかという問題に頭を悩まされるだろう。最近の作品では、過去の色調を消してモノクロにした絵に着彩を施していくグリザイユ画法と呼ばれる手法を用いている。彼女の弟カルダーがマンハッタンの自宅アパートのデッキでタバコを吸う様子はキャンディーカラーで着彩されている。自身が「男性的な呪文」と呼ぶものから絵画を引き離そうと、セルフポートレイト(2018)では、指でなぞって書いたように楽しげなしるしを描く。彼女自身が、湯気が立ちこめるシャワールームのガラス越しに描かれ、彼女の指はまるでデジタル機器のスクリーンをスワイプしているように示される。もちろんこの絵も、コンピューター制御のエアブラシプリンターによって印刷されたものなのだが、「ブラシによるストロークという身体の存在を排除する代わりに、伝統的な概念である〈マークメイキング〉のオーラを再び纏った得た絵画」なのだそうだ。

B=記録無し

14.Neil Beloufa

N./B. 1980 in France Lives and works in Paris(M)

A=Global Agreement,2018-2019
(Mixed media)
We only get the love we thins we deserve, 2019
Element 1: Steel, concrete, rope, plasma TV / Element 2: Wood, foam, leather)
B=Pre-Post 1,2019
(Concrete, steel, resin, plexiglas, neon, electric plug)
Pre-Post 2 ,2019
(Concrete, resin, glass, steel, MDF, Raspberry Pi, LCD screen, speaker, electric plug)

権威的な意味をもつ事物のアッサンブラージュで作り上げたシステムによって既存の権威を問う

A=作家が様々な国の若い兵士とSkypeを行ってインタビューした一連のヴィデオ作品。兵士の「キャスティング」は、自分の顔や思想を晒して、視覚的に物語るプラットフォームであるソーシャルメディアを通して行われた。作品を見るために、ジムの装備を思わせる歪つなかたちをした構造体に鑑賞者を座らせる。座り心地が悪く、動きを制限される特殊な椅子は、正面を向いて座った時だけ、映像に映る若い兵士の顔が見えるようになっている。他人(兵士)を観察する鑑賞者を、さらに周辺の傍観者が見るという構図が生まれるように空間は設計されている。祖国の家族を想い憂う兵士がいる一方で、訓練で鍛え上げあれられた肉体を公開するSNSアカウント自慢する兵士や、戦闘の美学を語るような兵士もいた。だが、みんな最後はどこか虚ろな目をしていたのが印象的だった。ソーシャルメディアの動力源となっているフォトジェニックの罠を暴きながら、自己表現のシステムの使い方について考えさせ、軍事力への固定化されたイメージに疑いの目を持たせようとしているのである。

B=いかなる権威的立場も拒む実践を試みる。まぬけでフューチャリスティックな彫刻的作品は、ほのかに光を放つ墓石のように見えるだろう。彼のスタジオのがれきの山に捨てられていたものから、リサイクルされた素材でつくられた彫刻である。一見エコフレンドリーなようだが、カーボンフットプリント(原料の調達からリサイクル段階までライフサイクルを通したCO2の総排出量を表す)という観点では、この展覧会場において重い圧倒的存在感を放っているかもしれない。この彫刻は、言語と美学によって作り上げられたサステナビリティに関する聞き心地のよい談話なのである。マーケティングのように、輝かしく分かりやすい手法(にぎやかなネオンサイン、広告用のビルボード、ダンフラヴィンのような商業利用可能な蛍光灯の備品)が用いられており、規格化にも躍起になっている本作は、私たちの過剰消費文明の究極的な墓地のようにも見えるだろう。

Only stupid people would think that not being political isn’t political.
Neil Beloufa

政治に関心がないという姿勢が政治的でないと言うのも、わかりやすく政治的ではないからといって政治的でないと言ってしまうのもとても愚かなことだ。


ヴェネチアの夏といえばアペロール?

参照


4)DAMN°FEELINGS IN AN INTERNET SOCIETY DAMN°SITS DOWN WITH ANTOINE CATALA(published on July 2019)
8)artnetMeet Augustas Serapinas, the Youngest Artist in the Venice Biennale, Who Likes to Lure Curators Into an Empty Sewer (published on 26.04.2019)
9)SSENSEアレックス・ダ・コルテの因習打破 フィラデルフィア出身のアーティストは「趣味の良さ」に挑戦する
10)SSENSE僕は何者だろう?ビデオ アーティストのエド・アトキンスがインターネット後のアイデンティティを語る (published on 05.12.2018)

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