
「人間1回目」という免罪符で生き延びています。
毎年、年末になると翌年のテーマ(個人的)を考えるのだけど、正直なところ今年もよくわからなかった。何も見えなかった2020年から、少しずつキーワードは浮かび上がってきた2021年。そして、まだ混沌としている2022年。混乱している方がふつう、というか混乱している方がいい1 のかもしれない。ただ、意図的にテーマを絞る訓練というのも一方で私には必要で…という感じで、2022年は最もパーソナルな感じになるけど、散文的に綴っておこうかなと。
犬(と狼)
多分、ヒューマン・スケールというスケール感が一番抜け落ちていると思う。もっと細かいところとか、逆にもっと引いて見ることはできるのに。犬好きは、可愛さの対象としてと言うよりも、犬の方が人間より親しみを覚えるから。犬猫のかたちをした人間では?と思うペットがいるように、人間のかたちギリギリ生まれてしまった犬なのではないか、それなら人間の世界に馴染めなくても仕方がないと、楽になれたりする。野良犬に憧れる飼い犬といった感じかな。犬は人間の伴侶として、それを生存戦略としてサバイブしてきたように思われるけど、実は今でも野良犬の方が多いらしい2。日本では、犬と狼の歴史は交錯してきたようだ 3。フランス語でEntre chien et loup 4(犬と狼のあいだ)とは黄昏時。哲学では犬儒派(ギリシア語でキュニコスkynikos)はcynicism の語源になっているらしい。どうも皮肉っぽくなってしまう性を心得る。
賃貸住宅のスペック紹介に踊る「ペット可」の誘惑。いつでも犬と暮らせるというただその環境だけでひとつ自由を手に入れることができる気になってしまうことも、環境を整えたところで、犬との暮らしは結局まだできそうもない生活も虚しくなる。もしも人間がこの世からいなくなったとしても、きっと犬は生き延びる。あの愛くるしい表情も人間のために造られてきたのだとしたら…「飼う/飼われる」関係性はお互いにとって幸せなものなのか?それ以上の関係性を築くことができるのか?
「長女」という属性を飼い慣らす
知れば知るほど気にする[ケア]ことが二次曲線的に膨れ上がり、そろそろ手に追えなくて、そのくせ、反射的に行動するよりも、まずどう責任を取らなければならないか考え込んでしまう(質の悪いことに年を重ねることに深みに嵌っている…)のは、「長女」という属性に起因しているのかもしれないと最近ふと頭に浮かんだ。 「お姉ちゃんでしょ」という暗黙の了解。 何かあったら「お姉ちゃんでしょ」と責められ、庇ってもらえるものはない。責任感という身構えのポーズ。
責任は取ったり取らなかったり、いつも何かに庇ってもらえる、というより「庇われる身のこなし」を自然に習得している末っ子気質のそういう無責任な態度がどこか許せない、というか羨ましかった。(もちろん下の子や 一人っ子もそちらの立場の苦労があるのだろうし、女王様タイプの長女もいるだろうけど)無条件に赦されたかった。そういうふうに、家族や学校といったごく狭い社会の中ではどちらかというと男性的役割を求められる、一方で「女でしょ」の抑圧からも逃れられないアンビバレンス。不条理な「長女」役はそろそろ成仏して、解放したいところ。
「責任」と「強さ( )弱さ」と「ケア」
そもそも、勝手に長女役を演じていて、責任も勝手に「取って」きてしまっただけなのかもしれない。語源を辿ると「責任responsablité」とは「répendre(応答する)」に対応する 5のだという 。責任を「取って」しまったら応答にならない。応答するものであるなら「取って」しまうのはナンセンスだし、傲慢ですらあるように感じる。
自己責任論が破綻していることは上述の通りで、人間は社会的な生物だから1人で生きていくことはもちろんできなくて、でも、 傷つけないように、傷つけられないように、守って、庇って、慰めて…という連帯に、ちょっと過保護アレルギーを起こしかけていたりもする。(この部分だけ切り取られると誤解を招きそうなので一度撤回しておく)「共感」という相手からの同意や相手への期待を前提としたコミュニケーションをうまくとることができない。気長に[patiently]、自分・他者・社会をお世話する[care/看る]というより治療する[cure/診る]ように、 理知的に「いちいち」応答していくのはダメなのかな。問題を根本的に取り除くためには、よく診て、必要なら苦い薬も辛抱しないとね。もちろん、一瞬の快楽も必要だし、荒治療だって時には効果抜群だけど。
0≠→0
「ケア」 7がトレンドワードとして氾濫する2022年。トレンドにしてしまったからには、大きな声で、少数の声だけではなく、二元論に還元できない複数の声が掻き消されないように注視していきたい。 そもそも、1人の人間の中にも強いところ、弱いところ、(強弱で整理するのは適切でないとしたら)平均値に近いところ、そうでないところ色んな性質があるのに、その複数性[plurality] 6を無いことにして近似曲線をデザインしてきてしまった。切り捨ててきた変数の影響をもう無視することはできない。(最初からそんな都合の良い一本線を引くことなんてできなかったのだけど)
ところが、まずは個々の問題にブレークダウンして考えようとすると「問題の矮小化」だと歓迎されず、賛成はできないが理解はできなくもない反対意見もあると逡巡する姿勢を「中庸は悪だ」と切り捨てられるようでは、途方に暮れてしまう。「政治」と「社会」(や「個人」)の責任は異なるという姿勢が ハンナ・アーレント によって示されたことで、少なくとも私は、距離をとってみたり接近したりして思考する道筋を見つけられたし、問題への向き合い方だって複数性があってもいいはず。 思考停止に陥らなければよい。それがひとつの政治的姿勢と捉えられることすら知らないノンポリ的中庸を0とすると、いろんな方向性[ベクトル]を逡巡する結果として、その時点での演算がベクトル0になってしまったとしても、それは0とイコールではないし、ベクトルは常に振れ続けている。-天秤座の同士に捧ぐ
しかし、ウクライナの危機については、完全に「政治」的危機。日頃、「社会」問題に対する意思表明は躊躇していたとしても、この政治的危機は完全に別次元の問題なので、行動して、声を上げていかなければならない。正直まだロシアとNATOの問題については私も不勉強だけど、 過去から学ぶことは、如何なる理由があっても戦争はしてはならないということで、ここには「中庸」はない。
Donation
聞いたこともない組織だと、その実態やお金の使い道まで調べ尽くすことは困難なので、まずは公式な政府機関や国際機関から。
1. ウクライナ大使館
三菱UFJ 銀行/ 広尾支店/047/普通/口座番号 0972597/エンバシーオブウクライナ
2. UNHCR こちらから
3. UNICEF こちらから
http://ukrainedao.love
仮想通貨についてはもう少し様子をみたいところだけど、マネーゲーム的側面ばかりがフィーチャーされるNFTの新しい可能性が生まれるか注目したい。
そういえば、プッシー・ライオットの政府に対する抗議ステートメントの訳文を見失ってしまった。
社会的態度が政治的態度としての抵抗になることを書いてあったのに・・・
特権的ナイーブさへの応報
「(制度上)ふつう」に生きられることに対する感謝を心に留めて…だけど、正直なところ、それに罪の意識を持ったり、特権的な立場を自覚していると告白することで赦しを請うたりことへの迷いもあったりはする。パフォーマティブなそれが目につくからかな。「集団的な罪を自発的に認めることは、その意図とは反対に、何かを実際に行った人々の罪を免除するうえできわめて効果的に働く(中略)すべての人に罪があるのなら、誰にも罪はないことになる」 8という危うい側面も同時に心に刻んでおきたい。
「自分が見知っている〈綺麗〉なものとして世界(人間社会)は存在している/できるはずだ」という姿勢はナイーブ 9すぎる。恵まれた立場の人たちが、コンフォート・ゾーンの界隈内で、侵されることなくそう信じ込めているのは何ともおめでたくて、モダニスト(20世紀的)であるように写る。その「特権的ナイーブさ」 8が無意識に生み出すハレーション。ただし、不快感や拒否感といった感情が沸き起こる時、大抵の原因は自分の中にある。抗いたいその思想が潜在意識に沁み付いていることへの羞恥心、もしくは嫉妬。その「怒り」は自分を棚に上げるだけの批判ではなく、外に開かれているか?
一方で、そのハレーションすら自分たちのものとしていくというか、「特権的ナイーブさ」に悶々とすることなく、軽やかに乗り越えていく人たちもいる、パラダイム・シフトが確実に起こっているという現実も直視していかないとなあと。
ゴミ箱フォルダ
悲観的であることは楽観的でもある。
Lee Kit (Artist)
最初の緊急事態宣言が明けてすぐのLee Kitの展覧会で見かけたこの言葉をTwitterの下書きフォルダから発掘した。根拠の乏しい楽観性や、Toxic positive(ポジティブの押し売り)に辟易することが多かったので、正しく悲しむことを肯定されているような気がして、その時は書き留めていた気がする。だけど、多分どこか引っ掛かるところがあったからtweetはしなかった。本当は、悲観的で、ナイーブで、感傷に浸っていることは、楽観的で、そして無責任であると戒める言葉だったのではないか・・・
従って汝自身を知るが良い。
アレグザンダー・ポウプ『人間論』
神の謎を解くなどと思いあがるな。
人間の正しい研究題目は人間である。
この中間状態という狭い地域に置かれた、
先は見えないながら賢く、荒削りながらも偉大な存在。
懐疑家の側に立つには知識がありすぎ、
禁欲家の誇りを持つには弱すぎ、
中間に逡巡して、挙措進退に自信が持てない。
神にもなれず、獣とも思えず、
精神と肉体の選択もつ聞かね、
生まれては死に、判断は誤謬ばかり。
乏しい彼の理性では、考えの多少を問わず、
無知であることに変わりはない。
思想と感情とが混沌として乱雑を極め、
いつまでも自ら欺いたり、悟ったり、
半ばは上を目指し、半ばは下を見、
万物の霊長でありながら、万物の餌食となり、
真理を裁く唯一の存在でありながら、
絶えず誤謬に投げ込まれる。
まことに世界の壮観で、お笑い草で、おまけに謎でもある。
pp.23-24『善と悪の経済学』トーマス・セドラチェク著
「正しさ」に過剰反応の渦中で、 逡巡してばかり、誤謬だらけの状態で、言葉を公の場に残すことは怖い。それでもせめてもの応答として、この2月の記録を記している。プリセットとして「正しい」状態しか知らなければ、誤謬も邪心もなかったのかもしれない。 限られたキャパシティを圧迫する不要な情報が多すぎる。「正しくない」情報をアンインストールしていかないと、エラーを起こしてしまう。誰にも見られない、誰にも見せなくていい 「ゴミ箱」のような場所が必要だと思う。

中庸に甘えず、ナイーブになりすぎず、抱えなくていいものを吐き出し、いちいち今に応えていく。