無邪気に責任に応えていく

Appendix

「ユージーン・スタジオ:新しい海」展についての雑記。

鑑賞後の感想としては「何も感じなかった」んですよね、正直…
感銘も受けなければ、不快さもなくて、目 [mé]の「非常にはっきりとわからない」展(千葉市美術館、2019年)には、酷くイライラさせられて、その理由を探るのに躍起になったのとは対照的だったというか。

その空間の白さも相まって無菌室のようだった。今回は絵画がメインだったようだけど、装飾用にインストールされた作品のようにしかどうしても見えなくて、本人による作品説明の解説文はたしかにコピーライティングのように魅惑的な文章として、単独で成立しているほどだったけど、作品と往復して見るとその間に断絶があるような違和感を覚えた。 海のインスタレーションは、MOTの既存建築と相まって近代都市空間の水景を、全面タイル仕上げの床はinstagramで再生産されるトレンドのインテリアを彷彿とさせるように、全体的にどこか見覚えのある場所のような気がして、展覧会というよりも「リトリート・ホテル」と見ると合点がいったし、そう見るとかなりうまく空間デザインできているなあとすら思えた。

もちろん、 美術史に精通していればいるほど、 デュシャン、リヒター、ヴィル・ヴィオラ、ジャッド…etc 参照元を発見することになって、その表層的な感じや節操のなさみたいなものを揶揄したくなる気持ちもわかりはする。一方で「サンプリング」 という手法だと捉えると見方も変わってくるし、そもそも現代アートの「概念を作り上げる」といった空虚さ[void]みたいな側面を暴いたり、問うたりするものであったなら、違った緊張感や議論が立ち上がったのではないか、そこへの応答はないのか?というところで議論が渦巻いているような…

観客の方はと言えば、確かに写真を撮っている人はたくさんいたけど、大型のインスタレーション(地方芸術祭に多い)の展示って、別にこれに限らずみんなすごい写真撮るし、そもそも写真で記録すること(そして、何ならそれを使って自分のコンテンツにしてしまう)のは現代人の平均的な行動だしなあと…それよりも、オシャ・ピーポーがめちゃくちゃ多くて、彼らも空間の一部として同期していたこととか、解説文を読んで「こう書いてあるから、そう描いてあるんだね」と何の躓きもなくサラサラ鑑賞している人が多いことの方が気になった。少なくとも、「アート思考」(≠アート)に関心のあるインテリ層にはかなり親和性の高そうな展覧会ではあった。

美術家の大岩雄典さんのコメントが示唆に富むものであったので、メモとして引用させて頂きました。

アーティストとアート・ディレクターって職能はもちろんなんだけど、属する文脈が違うことが多いじゃないですか。でもどっちも「アート」って言葉が入っているから紛らわしいし、「誰もがクリエイター」みたいなノリで「アーティスト」って言葉が使われているのよくないと思うんですよね・・・
あと、薄っぺらいテクみたいな入門とか解説ばかりが巷に溢れていて・・・そもそも、現代アートはすでに価値の確立されたものではないのだから、教科書的に学ぶのがナンセンスで、今やってる展覧会、自分でも実際に見ることができる展覧会をトピックに、雑談形式で深堀りするみたいなスタイルで現代アート入門の連載とかあったらいいのになと思ったり

「特権的ナイーブさ」に関連して、もうひとつ。

建築界隈では、建築家の手塚貴晴さんの「建築家になろう」(2022.2.17にFBに投稿)を巡って、Twitterがにぎわっていた。給料が安くても、体力的に苦しくても、いつかは報われるから、目先の利益を求めて他の業界に行かず、建築家になろうといった内容。理解できる部分もなくはないけど、スタッフを雇う立場の人として、また「努力できる」環境があること、それが報われることの「特権性」について議論されている時代にそぐわない発言だっただろう。

ただ、建築家になった人も、それ以外の道に進んだ人も、新しいエコノミーを立ち上げている、その萌芽をみることができた出来事でもあった。 スターキテクト[Starchtect]の時代を超えて。

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