2人の女性写真家が語る「家族」

先月は浜松へ小旅行。

小旅行というには、あまりに近いのだけど。
だから、気分は遠足。ダラダラすることを目標にした遠足。

帰りの新幹線は途中下車。三島で降車して、クレマチスの丘へ向かう。
杉本博司の空間は一目見ただけで、すぐにそうと分かる。
ほんの少しだけ黄色味を帯びた表面が皺のように波打つテクスチャが特徴の光学ガラス、無骨なままの石…といったマテリアルに、あの独特の「間」ーIZU PHOTO MUSEUM
適当に旅程を決めた今回の旅行だったけど、川内倫子さんと長島有里枝さんのトークショーに遭遇し、本人による主観的な、いやある意味で最も客観的な視点で、作品に対する想いに直接触れられたのはとてもラッキーだった。名前と作品を数点しか知らないまま、なんとなくのイメージを勝手に作って作品を見てしまっていたから・・・

/記憶の記録として

祖父の死と甥の生を中心に家族について描かれている川内倫子の作品”Cui Cui”。去年、最後の祖父母が亡くなり、次看取るのは順当に行けば父母か・・・と、「死」という題がいつになく現実味を帯びてきた今の私には、作品を超えて感情的になってしまった。スライドショーとして移ろっていく時間は、完全な時系列に沿ったものではない。でも、精神的な時間というか、頭の中でおじいちゃんとの記憶を反芻しながら今を生きる時間が描かれているようだった。私は「写真」としてこんなに美しく遺すことができなかったけど、自分の記憶にある祖父母との景色も、写真のように美しかった。だから、代弁されているようでただただ嬉しく泣きたくなった。

/素直なパフォーマンスとして

長島有里枝の作品は、作品はもちろん、私が生まれた頃(20年ほど前)にこの作品が制作されたという事への驚きで、色んな意味で「ショッキング」だった。「女であることが消費の手段として使われ、経済効果を生み出していることへの批判」、「とても不器用だけど切実な家族への想い」・・・作品やアーティスト自身を説明するのに、到底言葉なんかでは足りない(そもそも「説明」すべきものではない)と思うけど、彼女の’紡ぎ出す’というより自然と漏れる言葉は、とにかく「素直」という言葉が浮かばずにいられなかった。「記録」を意識する川内さんに対して、長島さんはパフォーマンスとしての側面が強いのだそう。被写体がプロでない限り’自然にして’という方が不自然で、むしろ「カメラを向けるとポーズをとってしまう」ことの方が自然だという発言が印象的だった。撮る/撮られる関係ではなくて、共犯関係を築きながら一緒に作品をつくっていく。
そんな、長島さんが写真を始めたきっかけは、庭で花を育て、その花を写真家でも無いのに何とはなく記録し続けていた、そんな祖母の影響が大きいそうだ。同じ生垣を日々ランダムなアングルで撮られた4連の写真が脳裏から離れない。長島さんの祖母が自分で撮った写真をそう貼ったのか、長島さんが写真を見つけた時にそう貼ったのかは結局分からなかったが・・・庭で遊んでもらった祖母と私の記憶と勝手にリンクさせてしまったから。

/「女」であること?

「エモさ」や「フェミニズム」というトレンドによって、再解釈文脈で消費されてしまわぬようにと勝手に悲観的な気分になっていた(私だって、そんなにずっと作品を見続けてきたわけでもないのに本当に勝手な話だ)ところに、「作家として活動する中で、女であることを意識したことはありますか?」という問いをモデレーターが投げかけた。

”女性性を感じると人から言われたら、女なのでそうかもしれないとは思う。
でも、そもそも男性になったことがないので男性性は分からない。”

ー長島有里枝

自分自身の想いを深く重ね合わせながら聴いてしまったせいで、拡大解釈してしまっているかもしれないけど、女性的かどうかを問われること、言及する/されること自体が、女であるということに、自他共にまだ縛りつけてられているということなのだと思う。

”女であることは前提として個としてどうあるべきかを考えている。”

ー川内倫子

という川口さんの発言には、最近のフェミニズム”ブーム”に対して圧迫感を感じていた私の気持ちに、なんだか風穴が空いたような、勇気をもらったような気がした。女であるとか男であるとか、そういうことじゃないと思う。女は女だし、男は男、どちらでもない人はどちらでもない。だけど、そもそもこの世に性を授かった「個」として、どういう役割を担ってこの世界で生きていくか(日本でどう生きていくかという意味ではなくて)。他に訴えるだけじゃなくて、自分と向き合わなきゃ。そうじゃないと、きっと本当に意味での「自由」を感じることはできない。

/愛と葛藤

”家族って正直しんどいけど、でも諦めたくなかった”

ー長島有里枝

”写真撮るという「言い訳」で家族に会いに行く。”

ー川内倫子

彼女たちのトークを聴いた後ふと、グザヴィエ・ドランの「たかが世界の終わり」を見た時の、あの時の感覚を思い出した。

my review at Filmarks:
家族、愛、感情、時間、距離…
いつからこんなに世の中は複雑になったんだろう。歳を取るということは、そうやって相対的に思い知らされていくものなのかもしれない。
大人になって器用になればなるほど、一番大事なところで不器用になっていく。
幸せな記憶はもう幻。幸せな時間はただ語らぬモノにしか残らないのだろうか?
どこかで世界が終わっても、何事もなかったように時間は過ぎていく。

子どもの頃のように、無邪気に家族大好きとは言えなくなってしまった、大人の葛藤や歯がゆさに鬱屈とすることの多くなるお年頃。
でも、もうちょっと気楽に家族と付き合ってみてもいいのかなと思えたお話でした。

この記事の初稿は、停電のため2時間も待ちぼうけをくらった三島駅の待合室で書き上げた。談笑する人・怒る人・眠る人・泣く子供・・・各々の時間を過ごす人たちに囲まれながら。でも、持て余すほどの「時間」を半強制的に作られるのは、そう悪いことではないかもしれない。


初めてまだ日の浅い、私の余暇[Leisure]研究。

1.絶対的「時間」
2.物理的「移動」
3.精神的「保養」

余暇[Leisure]には、この3要素のバランスが大事だというのが現時点での答え。

どうやら私には、知的欲求を満たしてくれる精神的「保養」が1番効くようだ。

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