
今年は、爆発的な感染者数を記録しながらも、行動制限がないので、久しぶりに旅に出る計画の立てやすい夏だったはず。
それなのに、何だか腰が重たくて、旅に出る気がしなかった。予め2週間のまとまった休みがあると保証されていたら浮足立っていたのだろうか?エコノミーなのにビジネスクラスなのか?という航空券の見積もりを突き付けられて、旅への希望がまたひとつ消え去る…突発的な弾丸旅も悪くないことは知っているはずなのに、興奮を憂鬱が覆ってしまう自分に一番絶望する。
だけど、いつものように「ひとり旅」の計画を立てきらず、ぐじぐじしていたら、不思議と“Goodbye Lonely Traveler”していたのかもしれない。
23 Jul. 山梨
毎年恒例イベントとなった「桃狩り」の季節が巡ってきた。今年の農園のウェルカム桃は〈あかつき〉。〈なつっこ〉と〈長沢(白桃)〉を1つずつ、じっくり吟味しながら収穫。 桃は甘い水の化身みたいな果実だけど、 なつっこはシャキシャキした舌触りで、料理に使われるのも納得できる。今年のベストは、何といっても〈貴陽プラム〉。プラムと白桃と黄桃の間のような逸品を是非ご賞味あれ。

29 Jul. 美瑛
母親の誕生日に合わせて家族と美瑛へ。花と蜂とトンボが記憶の5割。ドライブする車窓からは、牧草ロール(HAY)がランド・アートのように点在する広大なランドスケープ。これが原風景だったら、スケール感覚が全然違うんだろうな。

北海道と言っても温暖化でまったく涼しくないけど、スキー用のリフトで上った夜山はさすがに肌寒い。人里離れることは、つまり光から離れることでもあって、澄んだ空気に身をゆだねて、天体観測。流れ星!と思っているものは、ほとんどが人工衛星であることを知る。暗闇に目が慣れてきて、浮かび上がってきた淡い天の川が得も言えぬ美しい。ジェームズ・タレルのアートでの体験を思い出す。「観光」に甘んじる旅は嫌いだ。今回は家族旅行だし「観光」という形式も楽しむかと半ば諦ていたけど、知人のおかげで SSAW BIEIの食卓に辿り着く。ガスパチョと胡瓜とミントのスープから始まる夏のテーブル。ピスタチオとペーストになったジェノベーゼに、白バルサミコで〆られた半田素麺の塩味を噛み締めながら、軽やかなズッキーニとトマトの甘みを味わう夏の滋養の味。爽やかな夏の味に、またひとつ出会うことができて嬉しい。

3 Aug. 八ヶ岳
この夏2度めの山梨。身曾岐神社で毎年8月3日に 開催されている薪能に、例年足を運ばれている方々にお誘いいただいて初めての八ヶ岳。開演までの束の間、ご自宅にお邪魔させていただく。富士山を拝む2階の部屋で、膝にはラブラドール・レトリバーが頭を摺り寄せながら、主の新作を囲む静かで豊かな時間。

野村萬斎親子の狂言から始まり、息子さんの成長に驚く。琵琶の静寂な調べは舞台よりも平場で聴きたい。

薪能の演目は『石橋(しゃっきょう)』。桃色と白色の牡丹のあわい、奥に佇むシテの語りに彼方の世界に誘われつつ…(寝落ちるかどうかの瀬戸際の状態というのが、実は一番記憶に焼きつくのは私だけだろうか?)虫や鳥の鳴き声、視界を過るオニヤンマや燕の姿など、能舞台の周辺環境の偶然を楽しめるのも薪能の魅力のひとつ。今宵はお囃子が何より素晴らしかった。動物の鳴き声が共鳴するように増幅していく調べ。能にしては、かなり華やかな印象だったが、夏の山の自然の蠢きを感じる夏の夜。納涼には、稚鮎の天ぷらも欠かせない。ヴェネチア以来の現地集合/解散旅が此処でよかった。

Aug. 4 軽井沢
横断に比べて縦断はなぜこんなに不便なのだろう。9割各駅停車、1割新幹線の旅路。午後のアポイントメントまで、セゾン現代美術館へ。企画展は「地つづきの輪郭 ⼤⼩島真⽊ ⾼嶋英男 伏⽊庸平 増⼦博⼦」。「身体の堆肥化と生成としての森をテーマ」に制作されたという大小島真木の作品 。壮大なカンヴァスに滲む多種多様な水彩が描き出す生態系の環や、フラジャイルな陶で象られた身体の器官に水が巡っていくようで、あらゆるものを蒸発させてしまいそうな熾烈な太陽光よりも、雨音が心地よかった。
雨は下から降る。
若林奮

「東京24区」と呼ばれるらしい軽井沢の別荘地・観光地の喧騒を抜け、森の中に佇むかほりのアトリエへ。ひとつの種類の木でも葉と樹皮で、同じ葉でも月の満ち欠けで、真逆というほどまったく異なる香りが引き出されることに本当に驚かされる。未知なる深海に潜っていくように、ひとつの生命の中に宿る複数性に耳を澄ませていくような時間。

14 Aug. 越後妻有
今年は地方芸術祭デパート状態。到底すべて行脚できるはずもなく(従順なアート「ファン」でなくて、ごめんなさい)途方に暮れていたところ、知人の同行者が急遽来れなくなったということで代打で参加することに。目的は、 中谷芙二子さんの《霧神楽》を舞台に繰り広げられる田中泯さんの《場踊り》。現れては消え、消えては現れる消失点のディゾルブ。無数の粒子ひとつひとつが自ら踊るように自在に舞う霧。 お盆、そして終戦の日を前に幽玄の世界に立ち会う。踊る身体に自分の身体が同期されていくように、ぐっと重力に沈み込んでいくかと思えば、はっと身体が消えてひとつの微粒子となって浮き上がっていくような没入感。「祭り」とは死者の依代となるそもそも生と死を廻るものだったと思い出す。 越後妻有の芸術祭を訪れたのは初めてで、新作以外も今回初めて見ることになったのだけど、「大地」の芸術「祭」として、20年以上耕され、根づいてきた様相を、草木に呑まれそうになっている屋外作品が物語っていた。何よりも、どこに行こうと、移動中も、ずっと黄金色に輝く稲穂が目の前に一面に広がっていて、芸術作品は山車や屋台みたいなもので、田圃をみることこそが命題とされている気すらした。

14 Aug. 佐倉(千葉)
会期残り僅かの「カラーフィールド」展(DIC川村美術館、2022年3月19日(土) - 9月4日(日))に駆け込む。( 円安・燃油の高騰によるダメージを日常的に受けていると、「サイズが大きい」というだけでまずありがたい気分になっていることに辟易する。 ) 「色の海を泳ぐ」ように、潜るように、俯瞰するように、仰ぐように、ミクロを覗くように、平面の広がりや重なりを意識しながら、色そしてかたちをみる、イマーシブな体験。図録も然り、写真ではほとんど何も伝わらないし、そもそもいつもここは写真撮影できないのだけど、SFMOMAのHelen Frankenthalerの映像をここに。
夏は死の匂いのする季節だったことをこんなに意識したことはなかった気がする。そんな夏だった。
積んでも積んでも、そのそばから崩れていくような日常の中で、目に見える何かを「つくる」という行為は一種のヒーリングなのだろう。何でも作ればいいとは思えない、作るのはいいけど、クオリティの伴わないものをすぐブランド化することには全然納得できない。でも、そういう完璧主義は誰のためにもならなくて、つくる「過程」こそがメディテーションとして不可欠なこととして、完璧であることへの拘りを手放すことで、ものづくりとの関わりを修復している感じがする。文字通り「一目ずつ」積み上がっていくし、間違っても解けばやり直せるニットの可逆性にいつも安心する。

手芸にカテゴライズされると、ニットはどうしてもほっこりなりがちなところ、『JUN MIKAMIを編む』はコレクション・ブックさながら。指定糸のカシミアはラグジュアリーすぎて別糸に変えたらゲージが全然合わなくて、前身頃をやり直して、編み図を引き直して、そうこうしてたら糸が廃盤になってしまって…など紆余曲折あって2年以上かけてやっと完成。たくさん間違っているところはあるけど、細かいことよりも、かたちになったことが嬉しい。
秋が待ち遠しい。