2018年から見た2019年

年と元号をまたぐ。

「平成最後の◯◯」っていうワードで全てがノスタルジックに語られた1年だった。戦争が起こらなかった元号であることは、何事にも代え難い素晴らしいことだ。だけど、それは私たちの力でも何でもない。「平成最後」のキャッチフレーズも、そもそもメディアが作り上げたという時点で冷めているんだけど、確かに時代は変わる。というか既に何かが(ネガティブな方向に)変わり始めている気がするし、そろそろ自分たちが動かないといけない。

/公(園)/庭(園)考 

夏からずっとこの事を考えている。きっかけは、SONY PARKのアンヴェイルと同時に勃発した建築家界隈の論争。(勝手に「ソニーパーク論争」と名付けて傍観してた。新国立競技場問題以来の内輪論争…)プラントハンターは生態系を破壊してるとか(最初見た時ディズニーランドのジャングルクルーズかな?苦笑だったのが正直な感想で、好き嫌いで言うと私は好きじゃないし、売り物だから触らないで下さいっていうのもどうかと思っている)、全く公共性がないじゃないか?と言った議論は本質とはかけ離れていた。だって、そもそもソニーが持つ土地(私有地)に計画されたプロモーション/ブランディングための場所なんだから。ただ問題の本質は、私有地(だからどちらかと言えば「庭園」と名付けるべきだった)にも関わらず、「パーク」という本来公共的な意味を持つ名前をつけてしまったことだったのだ。まあ、#PRやプロモーションという概念が日常になっている我々世代にとっては分かりきった話だったのだけど、公園と庭園のそれぞれの定義と役割をちゃんと考えてみるには良いイシューだった。「庭園/ガーデン」は、おばちゃんの庭いじり的なちょっとダサいイメージの一方で、「公園/パーク」はセントラルパークのイメージで美化されて認識される傾向にある。公園の実状はというと、「緑化」が形骸化した義務感の緑、申し訳程度の遊具、排除アートのベンチ、野球すら許されないグラウンド…etc、「公」主体のものはとにかく誰の意志もないし、誰も「居心地の良さ」なんて考えていない。みんなのために本来開かれているはずのものが、みんなのものだからという理由で制約だらけになっていく不自由さ。だったら、個人のもの[庭園]を開くという考え方の方がよほど自由なんじゃないか。そんな仮説をもって夏の終わりに訪れたドイツでは、ほぼ庭園のプライベートミュージアムという1つの先行事例1)を見つけたし、ロンドンの庭事情も興味深かった。ロンドンの庭には門と鍵がある。公園であるハイドパークも(後々調べたらNYのセントラルパークもそうみたいなんだけど)いつでも使えるというわけではないのだ。住居毎に庭を持てない代わりに一部の区画が共有庭とされている「プライベートガーデン」の延長のようだった。(24/7)オープンだけど不自由な場所と、使えない時間があるけど自由な場所。どっちがいいのか?こういった議論は何も公園に限った話ではない。ただ、SONY PARKを毎日観察していると、面白い発見があった。ただの構造物なのかベンチを意図されて設計されたなのかものなのか分からないコンクリートの塊には自然と人が腰を下ろしているという気づきだ。周囲を見渡すと、整えられた緑に囲まれた公開空地や、“デザイン”された休憩所には笑ってしまうくらい人が寄り付かないというのに。日本人にとっての居心地の良さとは…? 個と公のギクシャクした関係2)というのは、今年最後に見たANOMALYでのchim↑pomの展覧会で総括された。場所だけつくっても耕さないと意味が無いというのだ。当たり前といえばそうだけど、本当に(規制緩和という私利私欲のために)場所だけつくる開発は要らない。 結局は人、それも耕す[cultivate]人(not 舗装する人3))が大事だ。耕す人―面白い人になるぞ。
 
P.S. SONY PARKの地下で新型aiboを見た。表情というより尻尾の動きがすごい。コンクリートの冷たい床を闊歩する無表情の犬型ロボットが心地よく見える時代。新時代とはそういうものなのだろうか…

/監られるだけか演じられるのか

今年の鑑賞記録は延べ115本。(舞台:19、映画:25、展覧会:64。その他、音楽ものやトークイベントを含む)各々の数だけ見ると全然多くないけど、バランスはまずまずだったかな。去年から舞台を見る回数が圧倒的に増えた。いわゆるエリートなクラシックもの以外の舞台、新作に限らない映画、パフォーマンスやドキュメンテーションが1つのトレンドである現代アートの世界を横断しながら、現代社会について思考することが暫くのテーマとなりそうだ。今年は特に「映画」について考える1年だった。映画をテーマにしたエルメスの展覧会「彼女と。」では、作家役の主人公が「彼女」という女優の人物像を探るために、彼女の知人だと言う数人と出会うことになる。しかし、その知人も本物の知人なのか、役の中での知人なのか…という入れ子構造で話が展開する。

『君の名前で僕を呼んで』を観た時、君を知っている気がした。映画というものが目指しているのは、たぶんそういうこと。
見知らぬ人たちを結びつけて、初めて見る登場人物を知っていると思わせることだ。グザヴィエ・ドラン

というグザヴィエ・ドランの言葉4)を読んで、深く考えれば考えるほど訳がわからなくなる、ひと夏の奇妙な体験がようやく整理できたのだった。秋には『ノクターナル・アニマルズ』(2016)を鑑賞。アートディーラーの女性スーザンの元に、作家志望だった元の恋人からある日、一冊の本が送られてくる。スーザンはその本を読み進めながら、本の中の主人公と自身の境界が曖昧になり、自らの内面をえぐられていく… スーザンはアートディーラーとして成功を収めているが、アーティストになることを諦めた過去があり、誰もが羨むような裕福な暮らしだけど、夫との関係は冷えきっている。完璧な自分を演じ続けて生きてきた女性は、自分に正直に生きた昔の恋人の成功を目の当たりにして、何かが崩れ落ちるのだ。他者の視点で作られた自分を演じ続けるか、それとも孤独に耐えながら自分を貫くか。自分は後者であると錯覚した前者がマスの時代なんじゃないかな。そもそも二者択一の話でもないけど。冬は、昔のフランス映画。映画を監督しばりで観たことは今迄なかったけど、アラン・ロブ=グリエの虜になってしまった。学生の頃『去年マリエンバートで』(1960)を授業で観た時に、何故取り憑かれなかったのだろうか。数年間を失ったことに絶望しながら3作品を鑑賞。彼の作品は、現実と妄想の境界が曖昧な世界が静物的なカット展開で構成されていくのが特徴だが、『エデン、その後。』(1970)を紹介したい。モンドリアンのグリッドで構成された迷路のような空間のカフェ・エデンで、大学生の集団が1人の女子学生をターゲットに追いつめ、捕えるという最初のシーン。もちろん、その行為は遊戯であり演技なのだが、ある集団の中で、ある役割を与えられ、その集団の内外あらゆる方面から監視され…という状況は、どこか現代の監視社会に通じるものを思わずにはいられなかった。そもそも、生きるということそのものが、この世界というセノグラフィーの中で演じるということなのだろうか? むしろ、これだけ何が真実か分からない世の中、そうやって世界を観た方が、真実を見ることができるのかもしれない。

番外編:

舞台の中でも、圧倒的に見るものはダンスに偏っているし、それもクラシックバレエで育ったから、基礎無きものをまだ完璧に受け容れられないという偏見も否定しないが、今年見たダンスの中では、KAATで9月に見たFrançois Chaignaud+Cecilia Bengoleaの作品『DEVOTED』が忘れられない。舞台vs観客という対立関係が成立するイワユル劇場で、ダンサーは全員トゥシューズを履いているという状況からは新規性を感じないかもしれない。しかし、道化師のようなメイクを施されたダンサーが、若者のクラブカルチャー、民族舞踊、静的描写が綯い交ぜになったコレオグラフィーをミニマルなフィリップ・グラスの音楽の中で舞う。その複雑さというか無秩序さに現代社会の位相を感じるのだった。

/超私的な美意識に支配されたユートピア

2018年、ずっと抱いていた感情といえば、「賢く」生きることへのアンチテーゼだった。行き過ぎた、マーケティング(ターゲティングにウンザリ)・共感(マイノリティを救い上げるはずだったのにもはやマスになってないか?)・コミュニティ(一周回ってムラ化してない?)… つまり、「編集」の巧さが「賢さ」を意味していたような気がする。もっと言えば、自分を客観視して、みんなが分かる文脈の中で自分のポジショニングにいち早く成功した人が勝ちみたいな。時間がこんなにも圧縮されていて、すぐに結果を出さなければならない時代だから、仕方ないのかもしれない。だけど、量と速さばかりが追究される時間も、編集されたステートメントやコンテクストばかりで、シナリオやビジョンが抜け落ちたものも、仕方ないと片付けてしまってはいけない。と言うのは自分への戒めとして。とにかく、「編集」の時代だけど、だからなのかな、論理的に正しいことが正義みたいな話には、もうお腹いっぱい。すごく個人的な出来事とか、誰かの超私的な美意識が支配する空間こそがユートピアになるのではないだろうか?という仮説とともに、2019年をスタートします。

参照


1)インゼルホンブロイッヒ庭園美術館(デュッセルドルフ郊外)
2) 美術手帖 The Public Times vol.1〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜(2018.12.21)
3) Wired.jp いつも未来に驚かされていたい:『WIRED』日本版プリント版刊行休止に関するお知らせ(2017.12.22)
4)雑誌『V MAN』インタビューから(madame Figaro Japon 2018年8月号掲載)

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