
2023年上半期に急上昇し、トレンドワードとして定着しつつあるのがQuiet Luxury(クワイエット・ラグジュアリー/静かなラグジュアリー)だろう。ノーム・コア(2013年10月にK-HOLEが提唱)が10年の時を経てヴァージョン・アップデートされたようなキーワードだ。 ノーム・コア当時、いやその後10年経ったいま検証してみるのも良い。本当に「コア」を極められた人はいったいどのくらいいたのだろうか?
グウィネス・パルトロウの「法廷ファッション」が 「静かなラグジュアリー」 のイメージとして定着したことはなんとも皮肉だ。静かに、人目をひかないようにと意図していたファッションが、 言わば法廷という公然と晒される場において注目を集めることになったのだから。
Quiet Luxury(クワイエット・ラグジュアリー/静かなラグジュアリー) と混同していたある言葉がある。
それは「 Inconspicious Consumption(人目をひかない消費)」1だ。
かつての富裕層は、その地位を表すために物質的な贅沢品や高級品を購入していた。しかし、今の時代は「人目をひかない消費(inconspicious consumption)」をしているようだ。これはエリザベス・カリッド・ハルケット教授の造語で、サービスや教育、品質(たとえばスーパーではなくファーマーズマーケットで買い物をする)など注目を浴びにくい贅沢や知的な活動に消費することを意味する。目立たない種類の排他的行動といえる。
Kinfolk ISSUE 43
「 静かな
フィリップ・ペローの言うところによると2、ラグジュアリーとは「豊かな社会が生み出す剰余」であると同時に、「差異のしるし」であるそうだ。つまり、「差異」は必要条件であって、それが「しるし=記号」でない限り必要十分条件にならないということだ。「しるし」になること、それはどういうかたちであれ「力」を示すということでもある。「静かなラグジュアリー」トレンドは、その「力」の力学から逃れるものなのだろうか?確かに希少性が「差異」を生み出す大きな要因ではあるものの、1点もののユニーク・ピースでは「しるし」として機能しづらい。ある一定の世間(マス)に価値が認知されていなければ、憧れの対象にはならない。そうだとしたら、「 静かな」ラグジュアリーも「人目をひかない」ようにパッケージ化されているだけで、何ら人間本来の欲望の対象としての旧来の「ラグジュアリー」と大差ないのではないだろうか。特に、「控え目」な態度を求められる日本人(の女性)にとって、また「個」という特異点ではなく、スイミーのように大魚のすがたに集団で擬態しながら、みんなで一枚岩になって力を示すことを好む、 同調意識や全体主義に陥りやすい日本のマーケットとは非常に相性も良いのだろう。
「しるし」から距離をとり、あらゆる力学や自分の力の及ばない時間から逃れることはできないのだろうか?「人と違う」ではなく、「いつも違う」という「差異化」によって、私は
ほとんど人目を
「豊かな社会が生み出した剰余」を、「豊かな社会を育む余剰(余裕)」に再分配する装置として機能することができるのならば、「ラグジュアリー」はこの不均衡な世界で、ひとつのオルタナティブに成り得るのかもしれない。
丁寧な、静かな、洗練された、 当たり障りのない…それは態度なのか、ただのうわべのパッケージ、ウォッシングなのか、お気をつけて。
注釈
1 「 Inconspicious Consumption(人目をひかない消費)」 は、すでに下記の記事のように2008年に提唱されていたようだ。
“Inconspicuous Consumption A new theory of the leisure class” (By Virginia Postrel, JULY/AUGUST 2008 ISSUE)
2 ラグジュアリー/ファッションの欲望 (京都服飾文化研究財団チーフ・キュレーター 深井晃子 著)
Random notes
トップ画像は、 James Webb(1975年、キンバリー(南アフリカ)生まれ。ケープタウンとストックホルムを拠点に活動するアーティスト) による《A SERIES OF PERSONAL QUESTIONS ADDRESSED TO A ROMAN COIN》 。
Personal Questionsというタイトルの文字通り、 アーティストが選んだオブジェ/空間に対して、一連の質問を投げかける継続的なシリーズのひとつである本作は、アーティストがebayで入手したというローマ時代の銀貨「デナリウス」に、 物事の価値をめぐるさまざまな質問が、録音された音声として投げかけられるインスタレーション。物言わぬオブジェ(銀貨)の代弁者として、鑑賞者はその質問に対する回答を迫られているようだ。
*音源はこちらから視聴可能。
空港や駅舎で、年季の入ったスーツケースをいくつも、家財がすべて納まっているのではないかというほどの物量を抱え、列を為す人々の傍ら、機内持ち込みのスーツケースひとつ、スーツ姿で優先搭乗案内されるビジネスマンを見るたびに、「軽さ」こそが資本の象徴のように思えてならない。
フィービー・ファイロのセリーヌが、「モテ」に囚われていた多くの女性の装いへの関心を、「知的さ」へと転換(解放?)させたことは大きな功績だろう。 かたち(パッケージ)から入ることは別に悪いことではない。多分。それに、 結局は見た目でしか判断されないのだ。実態はさておき…
ブリストル生まれのコメディアン、ジェイド・アダムスによるシニカルで痛快なスタンドアップ・コメディでもこう言っている。
「もしあなたが“自立した女性の成功者”になりたいのなら、自分の意見を言うことと、フェミニストのワードローブの基本アイテム“真面目な黒のセーター”を着ることをオススメします。」