The Hands left behind can save us from overloads?

置き去りにされた手は、オーバーロード状態に陥った現代人に救いの手を差しのべることができるのか?

「今、若者の間で編み物がブーム」。ワイドショーの時間帯のニュースだけではなく、まったく脈絡のない番組でもこの話題が取り上げられていることが興味深い。 1、2、3…と目の前の編み目に意識を集中させる。素材に触れるという確からしさ。1、2、3…と確実に何かが積み上がっていくことへの安堵。糸と針に両手が奉仕する間は、物理的にスマホを触ることができないため、デジタル・デトックスの瞑想的な時間にもなるのだろう。求めていないものまで日々とめどなく流れ込む情報は、検索エンジンに蓄積されてメモリを圧迫するキャッシュのように、無意識の間に脳を疲弊させている。その脳内キャッシュをクリアする手段を現代人は切望しているのではないだろうか?

ネットワークから、それと接続されたデバイスから離れるだけであれば、その方法はいろいろある。シンプルに瞑想したり、座禅を組んだり、運動したり、サウナだったり…身体を動かすこと、歩きながら思考することの魅力は、さまざまな散歩論1で展開されているが、ここでは取り分け「手」を使うということに目を向けてみたい。現代人の例に漏れず、脳内キャッシュをクリアしようと、また、何かひとつのことを一貫して考えることの難しい切り裂かれた時間を繕うように、編み物に救いを求めているところがある。マフラーや帽子のような簡単なものを作るとき、単調な動作を繰り返している時、頭は空っぽで、頭から切り離されて手だけが自律して動いているように感じる。ふと…この状態は何かと似ている気がした — 疲れて動くことができず、スマホをスクロールしつづけるしかできないあの時間だ。内容は目の前をすり抜けていくだけで「スクロールする」という行動をやめられない。編み物をしながら聞いていたラジオからは、こんな感想が聞こえてくる。– 「編み物欲はパチンコと同じじゃん」2

手は忙しくしていたいのだろうか?

手を労働という奴隷状態から解放するための、機械化・近代化だったという3。少なくとも西洋的な文脈では。手仕事大好き日本人には、手を奴隷だと捉える感覚はあったのだろうか。24時間という時間の概念も近代化が強固にしたものだという。休むことなく動き続けることのできる機械を中心に、人間は何時間働く(働かせる)ことができるのか。「時給」と呼ぶように、人間の身体と時間が等価交換されるようになる…

頭脳仕事が高給取りであることは言うまでもなく、AIも手伝って、頭脳が先走りすぎている。置き去りにされた手は暇つぶしのために、スクロールに囚われている。頭と手が分離している状態は、健康的なのだろうか?手は頭と協働したいのではないだろうか?

無心に編む手を動かす時間はメディテーションで、その「過程」こそが編み物の醍醐味だと言える。だから、使える何かを完成させることは副次的な要素だったりする。さまざまな質感の素材や色に「触れる」という純粋で原初的な喜びにも満ちている。羊やアルパカのような動物性の繊維は特別だ。フワフワ気持ちいいとか、温かいという機能性以前に、動物の残滓に触れながら、動物としての生を取り戻しているとさえ思える。そして何よりも私が編むのをやめられない理由は、「かたち」や「パターン(模様)」をつくりながら、物事の構造を思考することにある。かぎ針編み(crochet)よりも、棒針編み(knitting)に面白さを感じる。それは、棒編みの方が、かたちや模様が遅れて見えてくるから。先を想像しながら設計図を描くように編み目を構築していく。手と頭が協働するためには、ある程度の複雑さが必要なのだ。

頭と手の協働を考えていた時、ふと、ダナ・ハラウェイの『伴侶種宣言』を思い出した。無類の犬好きの筆者が、ペットとしてではなく「伴侶種」として犬とどう関わることができるのか、一緒にドッグレースを経験することがひとつの例として挙げられる4。人間と動物が一緒に何かを成し遂げること。「犬(儒)派」=キュニコス派(英語: Cynicism、古代ギリシア語: κυνισμός)の思想にも見られるように、社会的規範に服従しながら生きる人間の愚かさや恥辱を誰よりも知るからこそ、犬は人間の鏡としてその役を嬉々として演じながら、人間の善き友人として、こんな社会で生きていく幸福のありようを教えてくれるのかもしれない5。それに、手は前足の名残だとしたら、人間だって、手を使わずにバランスをとることは本来できないはずではないだろうか

英語Schoolの語源は、ギリシャ語のskhole(スコレー)「閑暇、ひま」に由来する6という。「暇」ではいられない現代人は、暇を覚えている手と、暇を持て余している手と、どう仕事をしていくことができるだろうか?

部屋には、何年も編みかけの毛糸が転がっている。そのまま完成しないかもしれない。でも、積読のように、そこにあることが重要なのだ。編み物は、一本の糸から、どんなかたちも作ることができて、そして原理的にはまた一本の糸へと戻ることができる。切り裂かれることなく、いつでもやり直せるという構造、ある種の可塑性を確かめる存在として…文字通り、指と針は、指針を示してくれるだろうか。


  1. 散歩と言えば思い出すもの、タモリ倶楽部、ベンヤミンの遊歩者(フラヌール)…etc
    最近読んだものでは、「散歩する」という動詞はどういうふうに働いているのだろうか。という視点から、人間観と身体観を問い直す逆卷しとね氏のエッセイが面白かった。逆卷しとね, 「わたちたちは散歩する」2023.08.24,(閲覧日: 2025.04.11)
    メルボルンの書店Perimeter Booksが紹介していた『Walking as Research Practice』も気になっている。 散歩と都市や公共空間(パブリック)の関係性。現代都市の中で、プライヴェートな営みとしての散歩、空間を見つけることはできるのか?人間中心的な公/私を超えた環境との関わりをどう見つけることができるのか? ↩︎
  2. 佐久間宣行のオールナイトニッポン0(2025.02.19放送回) ↩︎
  3. 『中国における技術への問い 』ユク・ホイ 著 ↩︎
  4. 『伴侶種宣言: 犬と人の「重要な他者性」』ダナ・ハラウェイ著 ↩︎
  5. 『犬たち』マルク・アリザール著 ↩︎
  6. 「スコレー」 ↩︎

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