
Rosas
コレオグラファーであり自身もダンサーとして活躍するAnne Teresa De Keersmaeker(アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル)により、1983年に創立されたコンテンポラリーダンスカンパニー。「音楽と動きの緊密な関係」を主題としたダンスを探求する。前回の来日時(2017)のプログラムの1つ:アンヌ・テレサのデビュー作であり代表作でもある“Fase”が、クラシックからコンテンポラリーへと私を一気に引き寄せてくれた。いや、幼い頃TVで見たローザンヌコンクールで印象に残ったコンテンポラリーの作品もなくはなかった。だけど、そこから接点の持ち方が分からないまま来てしまったという経緯かもしれない。(そして、最近やっとモダンを理解しつつある・・・)“Fase”は、ミニマル・ミュージックを代表する作曲家であるスティーブ・ライヒの初期の楽曲4つから構成された作品。音楽の構造や、その音楽の中の音の関係性を、人の動きとその関係性として理解することで、初めて彼の音楽を聴くことができたような気がした。
week1
11.05.2019
『A Love Supreme〜至上の愛』
始まりは無音の中、4人のダンサーが踊るシーンから。
場当たりや練習風景のようでもあり、とにかく互いの関係はまだどこかぎこちないように見えた。動きの中に音楽を必至に見つけようとするのだが、なかなか旋律を紡ぐことができない。ようやく音楽が耳に入ってきて緊張が解れる。2曲目からは、サックス、ピアノ、ベース、ドラム、とメインになる楽器が移りながら4曲が続いていくのだが、ダンサーのキャラクターにも楽器の性質がよく現れていた。自分の音楽に没頭していくサックス、繊細でちょっと神経質そうなピアノ、その周りを慎ましく軽やかに舞っていくベース、全身でビートを刻むドラム。心地よい緊張感、高揚感に包まれながら、音の重なりや衝突を身体を通して理解していく。個人的にはベース役(?)のJason Respilieuxの表情が脳裏から離れない。音楽やダンスによって得られる生の喜びとはこうではなかったか。
最後の曲に、デジャヴの違和感を覚えるのだが、そうでないことに気づくのにそう時間はかからない。そう、1曲目に戻ったのだ。ただ、曲は同じでも同じではない。彼らの関係性も、もしかしたら音楽までもが、時間とともに変化してしまったのではないのだろうか。
楽器そのものとして、また楽器を奏でる人としての身体。
20世紀ジャズの巨匠の1人、ジョン・コルトレーンを中心とする伝説のカルテットのジャズを4人のダンサーの身体を通して経験する。曲や演目としては残るとしても、二度として戻ることはない時間の余韻とともに、1時間弱の公演は終わりを告げた。
舞台上に描かれていたのは、フィボナッチ数列の長方形—黄金比だった。
week2
19.05.2019
『我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲』
1人のチェロ奏者を中心に、5人のダンサーによって6曲で構成される作品。その1人はアンヌ・テレサ自身だ。
アンヌ・テレサのジェスチャーのようなサイン(指で1、2…と示す)で各曲は始まる。
4人のダンサーが1曲ずつ踊ってゆき、アンヌ・テレサのソロパートを挟んで、最後は全員が登場する。最初の4曲は彼女以外のダンサーがメインで踊るが、一部のフレーズだけはアンヌテレサもともに踊る。ダンサーの動きは曲によって変わっていくが、アンヌ・テレサの動きだけは反復している。伴奏なのか、(バッハの時代を想像すると)2人が手を取り合ったダンスなのか、ダンサーの鏡なのか…?
それにしても、アンヌ・テレサのソロパートには身の毛がよだった。暗闇のステージの前方で、下手から伸びるたった一筋の光の中で踊る。黒の無地で、背中が大きく開いたミニマルなデザインの衣装。肌の部分に光が当たった時しか、彼女の存在を認識することができない。確かに肉体はそこに存在するはずなのに、幻影を見ているような感覚に陥るのだ。ただ、この感覚は間違っていなかったのかもしれない。というのも、後でインタビュー1)を読んでいたら、“Mitten wir im Leben sind” (In the midst of life)というタイトルには、明記せずとも“mit dem Tod umfangen” (we are in death)という言葉が対になって隠されていると語られていた。(視覚的に説明できる資料がないので、で見たベンジャミン・ミルピエのダンサーの写真2)を参照されたいのだが、やっぱり違う。)写真の「ブレ」は、動きの瞬間を捉えたものとして見ることができるのに、連続したイメージを見ているはずの現実世界のブレは、どう認識すれば良いのだろうか? そして、フィナーレで全員で踊るシーン。全員で同じ動きをしているのに、アンヌ・テレサだけ、やはり少しズレている。やはり彼女だけが、違う次元との縁に立っているようだった。
バッハという作曲家については、馴染み深いようで実は何も知らない。お稽古ごと程度で私もピアノを習っていたことがあるが、バッハ=練習曲という印象。チェロの場合も、同じような認識が強かったそうだが、近年再解釈されているという。正直、難解な作品だった。それぞれの曲をどう動きとして表現していたのか、その構造をまだよく解釈できていない。その感覚が、バッハの作品の「抽象」の奥深さなのかもしれない。音楽は難しい。
参照
1)“Experience without Additives”(Published on 13.10.2017, 14:12)
2)KYOTOGRAPHIE “Freedom in the Dark” Benjamin Millepied ベンジャミン・ミルピエ
P.S
ROSASのウェブサイトは、文字色が黒でハイライトがネイビーに設定されている。
(特に今回は)衣装のイメージが黒とネイビーだったし、こういった細部への美意識にまた打ちのめされるのだった。