自然(発生的)−natural / spontaneousな形態を器にとどめて

兵庫県の山間の工房で制作を行うmushimegane books.
地球上のどこかの地肌を宿すような繊細なテクスチャは、壮大なランドスケープすら想像させる。

mushimegane books.のライトグレーのプレート

とはいっても最初に作品を目にしたのは画面の中で、実際手にとることがでいないままネットで購入した。届いて初めて目にすることになった器には、良い意味で期待を裏切られた。ネットショッピングでありがちなサイズが予想外だったということではなく(お茶碗にしようと思っていたサイズより大きかったけど、逆にそれは盛りつけることのできる料理の幅を広げてくれた)何より、その手触りとひっくり返した時の佇まいに驚いた。彫刻的だと感じた。目白のfuuroで開催中の個展で、作家さんとお話する機会を頂くことができたので(こういう状況なのでオンライン通話)書き留めておきたいと思う。

陶芸を始めたのも成り行きというか、特別な何かがあるわけではなく、今でも自分が作家であるという想いはあまりないのだという。どんなに意図をもって成形したとしても、最終的にどのような状態になるかは焼き上がるまで分からない。かつて、旅先から持ち帰った土を混ぜて焼いてみたこともあるらしい。素材に導かれるように、素材がもつ潜在的な形態を現そうと、そっと添えるように介在する手。シンプルなフォルムながら〔彫刻〕のような魅力を感じていたのは、この真摯に素材に向き合う姿勢にあったのかもしれない。

mushimegane books.の貫入りボウル

主に使用しているという岐阜県産の土との出会いも毎回勉強で、これだけたくさん作ってきてもなお土をこねる度に新鮮な気持ちになるのだとか。こういった純粋な探究心と好奇心が、器という容れ物を通して、手にとる人に受け渡されていく。地球から戴いた素材に、土に委ね、できあがったもの−それは器として機能するものだが−を通して人と出会い、人の心の容れ物になる。祭器をつくっているのが珍しいと思っていたが、そう考えると納得だ。楽器も制作しているそうだ。そうか、楽器という言葉にも〔器〕という文字が入っていたんだった。

うつわではなく、器として記さないといけない気がした感覚は間違っていなかったようだ。


mushimegane books.展

場所:Fuuro(東京都豊島区目白3-13-5 イトーピア目白カレン1F)
会期:2020.7.11 sat ‒ 22 wed
時間:12:00 ‒ 19:00 (最終日 17:00まで)
作家リモート在廊日:11 sat , 21 tue
web販売:14 tue – 22 wed
最新情報はinstagramをご確認くださいとのこと。


後記)私は、アートをみる時、ものを手にとる時、まずじっと対峙することから始める。素材に向き合う、ちゃんとみる、など何を当たり前のことばかり書いているのかと思われると思いますが、当たり前のことを続けることほど大変なことはない。書けば書くほど陳腐な言葉で説教じみてくるのでここらへんで止めておくが、〔on-line〕の対局にあるのは〔off-line〕ではなくて、自分の目で〔out-line〕を見出せるかどうかなのかなと最近考えている。写真やキャプションなどの〔情報〕だけでは、ものや作品がもつアウラ、それが置かれた状況、裏側にあるストーリーなどの〔out-line〕を描くことは難しい。インターネットによって平等に情報は提供されているように見えるが、そんなのは幻想で、肝心な情報ほどオープンに晒されることはないし(悪い面の方が目に付くが、隠すことで守られるものもある(あった?))、情報だけで知った気になるのは危険。AIとまで言わずとも、集合知の時点で凡人の〔知能〕を超えるものは既に存在しているわけだし、〔知的〕という空虚なコピーももうウンザリ。地球にとってほとんど害でしかないとすら言える人間として生きていくためには、〔知性〕を養わなければならない。それが野性を失った人間として、out-lineを察知したり、想像したりするための唯一の道のような気がする。

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