もう暫くはアノニマスのままで

28歳になりました。

東京に憧れていた田舎の中学生だった頃、28歳はもっと〈大人〉だと思っていた。いわゆるキャリアウーマンとして充実した、ドラマのヒロインみたいな「恋も仕事も!」みたいなトーキョーライフ(笑)を手に入れている28歳を夢見ていた。実際はというとそんなドラマチックなものなんかではなくて、生活していかないといけない現実は理想だけでは語れない厳しさもあって、現実はもっと予測不可能で、それなのに信じられないほど淡々と-matter of fact-進んでいくものだった。誰かにとって特別な日常も、誰かにとっては何でもないただの日常で、時間は何事もなかったかのようにただ流れていく。私の28歳はターニングポイント、というよりも遅いスタート地点になりそうです。

/〈大人〉とは何か?

そもそも〈大人〉になるとはどういうことなのだろう? 何歳になったら〈大人〉? 20歳?30歳? 言葉として1番分かりやすいのは、経済的・精神的に〈自立〉することなのかな。社会の中で=人と関わりながら、自分の力で生きていくこと。そのためにはもちろん、遅刻しない・締切守るとか、人と信頼関係を築いていくためにちゃんとしておくべきことはある。だけど、我慢・譲歩・根回し・馴れ合い・・みたいなスキルを磨き上げることが〈大人〉になるということなのだろうか?みんなが誰かの顔色を伺ってばかりで生きている状況って冷静に考えたら不思議過ぎる。それって一体誰が幸せなんだろうって。精神的な〈自立〉とは、自分のことは自分で責任持つこと、つまり、自分の意見は自分の言葉で伝えること・自分の身は自分で守ることだと思う。できないこと、許容できないことがあるのなら、ちゃんと対話をして伝えなきゃ。一方的な主張ではなくね。何もせずに理解してほしいというのは、訳も分からず泣きじゃくったり、拗ねたりするこどもと同じ。「それができるのは、あなたが強いから…」という言葉が聞こえてきそうだけど、正直なところ「みんなに好かれたい」というのは、ある時点で諦めちゃった。だって、どうしようもない〈オトナ〉もたくさんいるし、そもそも〈みんな〉なんて無理がある・・・だから、〈逃げた〉ものもたくさんあって、負い目もコンプレックスもたくさんある。でも、「みんなが80点の評価をする優等生なもの」か「120点の人と30点の人がいる好き嫌いが明確なニッチなもの」か、どちらになりたいかの問題。どちらがいいこともなくて、どちらが悪いこともない。ただ多分、社会の中での役割がちょっと違うだけ。

/なりたい〈大人〉は〈おばあちゃん〉?

ここ数ヶ月、いやここ数年いったいどんな〈大人〉になりたいのか考えている。正直言って私には〈ロールモデル〉となる人は今のところいない(そもそも〈ロールモデル〉なんてものは必要なのか?)のだけど、 とにかく色々と〈オリジナル〉を探っている。〈オリジナル〉という言葉もまた難しくて、外側と内側と2つの方向で見ないといけない。

Original

/ərídʒ(ə)nl/

outside[外的要因]:何かを最初に成し遂げた人や出来事。
inside [内的要因]:自分のルーツやアイデンティティ。

外側の話は一生かけて学んでいくんだと思うけど、最近は内側の追究こそ大事な気がしてる。「◯○になりたい」みたいな具体的な目標が年々描きづらくなってきたから。世界の動く速さが加速しすぎて、従来の肩書きや境界ではもう色んなものが把握しきれない。純ジャパとして生まれ、日本で純粋培養されると「自分のアイデンティティとは何か?」なんて考える機会は滅多にないけど、東京と福岡のハーフですとかそういう話ではなくて、潜在的に何に関心があるのか?つまり、何を拠り所に生きていくのか?何で自分や人を救うことができるのか?揺るがない自分のオリジナルが欲しい。私のルーツは間違いなく2人のおばあちゃん。華やかなものへの嗜好は着物や茶器を愛したという父方の祖母から、自然への興味は島育ちの母方の祖母から受け継いでいる。残念ながら、おばあちゃんと繋がれるものは、僅かな遺品と幼い頃一緒に過ごしてもらった記憶しかもうないのだけど。(大切なものは失ってから気付くという愚かさを人間は永遠に繰り返してしまう虚しさ。)私のルーツが祖母にあるからというだけではなく、〈おばあちゃん〉になりたいと思うのは、“お勉強”ではないたくさんの知恵(≠知識)と、見たことのない世界をゆったりと教えてくれた存在だったから。血縁を超えて、何周も何周もして純度が高まった〈大人〉のことを、多分私は〈おばあちゃん〉という概念で認識している。お姉さんでも、おばさまでもなく、〈おばあちゃん〉になりたい。
 

/〈なんとなく〉に真摯になる

「自分のアイデンティティとは何か?」の問いには、実は多かれ少なかれ誰もが遭遇している。それは学生時代のモラトリアム、もしくは(忌まわしき)就活の“自己分析”。ただ、新卒一括採用の就活とはそれはもう本当に不健全なもので、アイデンティティへの問いは「何者か?」から「“何者”になりたいか?」、そして「“何者”かにならねばならない」という強迫観念へと擦り変わっていく。とにかく私が就活生の時に酷く傷ついたのが、〈オトナ〉から〈なんとなく〉の一言で片付けられてしまうことだった。それで解決するのであれば、誰も悩まない。自分にとってあんまり得にならない、下手すると敵になるかもしれない人は牽制するのが〈オトナ〉なのかと。確かに、華麗なる論理で過程が繋がっていくことの方が稀で、結果的に〈なんとなく〉としか説明し難いことの方が実は多いのかもしれないけど、その易しく冷たい言葉に甘えて、〈なんとなく〉で突き放す大人に私はなりたくない。運というか偶然というか必然というか、ただ淡々と運命に導かれて何者かになっていくのであれば尚更、〈なんとなく〉に真摯に、自分や他人と向き合いながら、日々懸命に生きていくほかない。
曖昧なセルフポートレート
 

/(まだ)“何者”でなくてもいい

現実は〈なんとなく〉の連続=予測不可能だからこそ、きっと面白いのだと今なら思える。だって、誰かが描いたシナリオをなぞるような、いや誰かに描かれてしまうようなシナリオなんてつまらないもの。好きなものも、どう生きたいかも、ネットで拾ってきた素材をコラージュして簡単に言い当てられてしまっては困る。(instagramの成功セオリー)「ワンワードで語れる世界観」的な括られ方もしたくない。だから、“何者”としてみんなに認識されなくてもいい。少なくともまだ今は。ただ、これまた〈なんとなく〉の予感でしかないけど、いつかは“何者”かになって…というよりも“個”として何か大きなこともやらないといけない気もしていて、その時が来るまでまだしばらくは、何処かの誰かーアノニマスのままで。
 
repettoを履いて走る女性
追伸:
最近はちょっとまたハイヒールも履きたい気分です。
見栄と我慢のハイヒールではなくて、踊るように走ることのできるハイヒールを。
本当の意味で「走れる」っていうのがポイントです。
‘大人の余裕’なピンヒールの日々は私には永遠に来ないことでしょう・・・笑

Credit

  tops: dries van noten  
  earrings: handmade
  ring: uncommon matters
  dress: Yoji Yamamoto pass the baton>
  shoes: repetto

 
“無名”な個でありたい。

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