
2018年夏の旅行紀。
Chapter 1-1
蠅じゃないだけマシ。
と思えない人には夏のベルリンは辛いかもしれない。
カフェもお店も、ドアというドア、窓という窓が開放されているので、店内はおろかショーケースの中にもしょっちゅう蜂がお邪魔してしまっている。店の雰囲気が薄汚いかどうかには関係がなかった。店内がセーフだったとしても、天気がいい日はみんな外で食べているので、いずれにしても蜂との戦いは避けられない。食べる手を止めて、会話に集中し始めると、どこからともなく蜂が現れる。おしゃべりしながら、たまに手で蜂を払い除ける。また別の手がさっと蜂を払い除ける。鬱陶しいヤツに当たらない限り、基本的には誰も気にせず「スッ」と払っている。戦うというよりまるで戯れているかのようで、というかそもそも日常すぎて誰も気にしていない。そこまでして外で食べたいのか?と日本人からしたらちょっと滑稽な光景なのだけど、蜂がいる景色に慣れてくると、むしろ蜂が寄りつかない場所や食べ物の方に、不信感を抱いてしまうほどだった。ちなみに、蜂ではなく蠅が飛び交う景色ですら美しいと錯覚させてしまえる人がいるとすれば、それはティモシー・シャラメだけだ。
*reference
「鼻血と暖炉の炎:『君の名前で僕を呼んで』評」via i-D japan
現代美術作家のミヤギ・フトシさんのレビュー。映画に心酔してしまった人も、そうでない人にも、まだ見ていない人にもぜひ読んでみて欲しい。
Chapter 1-2
果実には目がない。
スーパーに並べられた規格品も、木に実をつけたままのものも。誰かの木、誰かの果実。穫ってはいけないものであればあるほど美味しそうに見えてしまう。だけど、落ちた果実ほど戸惑わせてくるものはない。穫っていいのかやっぱりダメなのか。そもそも、食べられるのか食べられないのか。ケルン郊外の野外美術館Stiftung Insel Hombroichでも、フランス田舎町のロンシャン礼拝堂でも、〈戸惑いの果実〉に遭遇してしまった。(ロンシャンは本来の宗教的な意味でも神聖なる場所だけど)ル・コルビュジエとアルヴァロ・シザという巨匠建築家の「神聖な」作品に対峙しているというのに、その神聖な建築の周辺に落ちた林檎が気になって仕方なくなってしまった。動物的というのか欲深いという意味では人間臭いというのか…そんな自分に呆れつつも、観察と採集は一度始めると止まらない。ー朽ちる林檎採集。
木から落ちた林檎は、草に横たわり、産み落とされた卵のようだった。ただ卵と違うのは、そこが生に向かう瞬間ではなく、死へ向かう瞬間であるということだ。腐敗するように朽ちるものもいれば、萎むように朽ちていくものもいる。桃とか無花果とか、この果実が林檎でなければもっと生々しくグロテスクなものに見えて、思わず目を背けてしまったのかもしれないけれど、林檎は清らかだった。静かに蜂に身を譲り侵食されていく林檎は、痛々しいというより神々しくて、その周りにはただただ穏やかな時間が流れていた。朽ちゆく林檎に惑わされる人間としては、そんな林檎の清らかさも、本能と欲望のままに貪る蜂もちょっとだけ羨ましく見えた。