
第7波にして、ついにCovid-19に感染してしまう。
Covid-19の名がまだなかった2020年の正月に多分1度感染していたのだが、Covid-19としては初感染ということになる。凡てのウィルスは胃にやって来る、謎の個体差により、今回も例に漏れず吐き気の症状で医師を困らせ、前回のように味覚障害には陥らなかったのは助かったが、幸い48時間で回復しても、その後待っているのは8日間の隔離。全人類かけての非常事態訓練のような長い隔離期間を経て、「自分の隔離期間マニュアル(というより儀式に近いルーティン?)」は完成されているので、思ったより苦にならないというか、むしろルーティン化されてよほど健康的な生活を取り戻せる感じもあるけれど、ここまでwithコロナになってくると、体調回復したならリモートワークでという暗黙の了解で、ダブルスタンダードな時間感覚に疲弊する。一人暮らしでも何不便なく生きていけるのは高度に文明化した都市生活のおかげなのだけど、コロナウィルスの脅威によって自然との関係性や、資本主義の(その枠組みの中でふつう不自由なく生きられている)特権性を再考するような「反近代」をテーマのひとつとする本を読みながら、Amazon Freshで生鮮食品を配達してもらっているパラドックス… (正直あまり期待していなかったけど、Amazon Freshかなりよくて、特に冷凍エビのクオリティがかなりよかった!)
うっすらいつも感じてはいたけど、見ないことにしていた、生活空間や生活用品への些細なストレスを解消しておくことも、「いつ隔離されるかわからない」状況への備えのひとつ。容易く、安く手に入ってしまうからこそ「間に合わせ」で調達してしまったもの(そういうものほど壊れないミステリー)をどうにかしておきたい。この思考もまたとてもモダニストだなあと反省しつつ…#ていねいな暮らし 的な不便さは、それが模倣しようとした生活とはかけ離れて、ほとんどの場合、消費されるコンテンツとしてしか成立しない。すべてがかりそめの状態でも、生活に応じてブリコラージュできる豊かさがあったなら・・・時間も手の自由も奪われていく貧しさ。ただただ貧相なことを清貧と読み替えてはいけない。
GDPが上がるほど先進国では幸福度が上がってきたにも関わらず、日本人だけは、幸福度が上がらなかったのだとか。参考:『ホモ・デウス 上』( ユヴァル・ノア・ハラリ, 河出書房新社, 2018) 人間の幸福度は、半分は遺伝子で決まっているらしく、残りの40%の幸福度を決めるのは、同じ好みや考えをもった人(like-minded people)と深い関係を築いていくことなのだそう。参考:“The secret to happiness? Here’s some advice from the longest-running study on happiness”(2017/10/5)日本人のなんとなく不幸感は、そういう関係性が希薄で、常にどこか疎外感を感じていることに起因するのだとしたら、マイノリティの人たちは、何であれ共有できる考えをもって繋がっている時点で、ある意味で幸福に見えてしまうのかもしれない。思想の対立とかではなく、 単純な嫉妬として、いたずらに嫌悪(phobia)に陥っているのだろうと考えると合点がいく。
飼い慣らすべき「孤独(lonliness)」と、飼い慣らしてはいけない「疎外(isolation/ alienation)」。 オープニングで寝落ちしてしまった 「動物を家畜化し、同時に自己を家畜化する」といったトピックのBS NHKの番組はどのような内容だったのだろう。多分、家畜化される方が効率的な生存方法だと思う。だけど、家父長的な社会/会社に家畜化された先に幸せはあるのだろうか?
ASAYANに始まり、つい見てしまうオーディション番組。最近のオーディション番組は人間性重視の傾向が強いが、大義名分なのか真実のほどは…という感じはあるのだが、『リゾのビッグスター発掘(原題: Lizzo’s Watch Out For The Big Grrrls)』(2022 / 1 season)は、セルフラブやセルフケアなど自分自身についても考えさせられてよかった。配信コンテンツの中で自らのトラウマを告白することへの是非はあるとしても。
完璧主義でインセキュアに陥ってしまう。子育てで家に閉じこもっている期間が長かったからか自分の話ばかりしてしまい、バランスがわからない。奇抜な見た目でないと自分が自分でない気がしてしまう。それではダメだと頭では理解しつつ、なかなか変わることのできない自分との葛藤。想像を絶する苦難を乗り越えてきたからこその、それぞれの強さや優しさにきっと魅了されるはず。ボディポジティブとかクイアネスとか、とにかくみんな見て欲しい。

セルフケアはヘアケアから
ヘアドライ後すぐに使える密度の低いブラシを探していて、ネットでサーチしてみたり、レビューの高かったAVEDAの店舗に行ってみたりしたけど、どうもしっくり来ず。別のアイテムを探しに行った東京ミッドタウン日比谷で立ち寄ったACCA KAPPAでメタルピンのブラシを発見。(このメタルピンは、日比谷店かオンラインのみで販売だそう)頭皮に触れるメタルピンの冷たさは、うだるような暑さと湿気を吹き飛ばすヘッドスパのように爽快で、見た目もシルバーの質感がもたらす清潔感があってとてもいい。あまりに気持ちが良いので、ブラッシングの頻度も上がり、良い習慣になっている。そういえば、シルバーのブラシ、なんか見覚えがあるなと思ったら、あれだ。犬用のブラシ!動物も大好きなブラッシングなら、きっとセルフケアにもなりえる?

ヘアドライ時には、SENSE OF HUMOURのヘアオイルDEWY ELIXIR OIL が欠かせない。 しっとりとした質感に仕上がるのはもちろん、何より自然の蜜を凝縮させたような甘いけど甘ったるくない香りがいい。シャンプーも変えてみたら 湿気でうねりがちな髪の調子が生き返った。(ドラッグ・ストアで気軽に手に入るオーガニックシャンプーTHE PUBLIC ORGANICもよかったし、これまで高いシャンプーを使って劇的に効果を実感したことはなかったけど、ストレートでストンと落ち着かせたい髪には本当にオススメ。)そんなSENSE OF HUMOURからトニックローション (写真)出ていたので試してみた。メントールとハッカ油で頭皮がスッキリして、メタルピンのブラシと併用することで、ヘッドスパ気分が高まって最高。

水をかたどる ― Plasticize Water
Casaの仕事部屋特集で書いて頂いて気づいたことだが、 息をつくため、息するのを忘れてしまわないように 「水を飲む」という身振りは欠かせない。インゲヤード・ローマンのウォータージャグも引き続き愛用しているが、夏は「たっぷり」味わいたい。たっぷり水を感じられる透明のグラスを求めて、Christian MetznerのRIEN Glass を新調。日本での取り扱い店舗でも在庫が欠けていたり廃盤疑惑?でCIBONEで最後の在庫だった。実験器具にも使われるというボロシリガラスのおかげか、 薄手でも繊細で壊れそうという儚さではなく、プラスチックのようなデッドパンな趣が感じられるのがChristian Metznerのガラスの不思議な魅力。いたってシンプルなかたちでありながら、ひっくり返すとメジャーカップにもなる機能性。その円錐のくぼみに反射する光、くぼみにたまる空気と水の屈折率の差によって現れる水の質料と、その美しさに毎日見惚れている。

氷もたっぷり容れられるので、大好きなShozo Coffeeのカフェオレベースで作るアイスラテをこれで飲むのもお気に入り。自然の色と、どろっとした質感を楽しみたいスムージーにもピッタリ。

記号から逃れるタイムレスを探して
気分を変えるには、環境を変えること、つまり引っ越しするのが一番なのだが、半年以上探しているのに一向にいい家が見つからない。引っ越せないなら、椅子を買おう。いうことでまた椅子を買ってしまう(今年2脚目)。ヴィンテージのパイン材のダイニングに合わせる椅子を探して…ぺリアンのような趣のあるダイニングだから、モダニズム・デザインの名作を合わせるのが無難だし、今っぽくはなるのだろうけど、モダニズム・リバイバルな部屋にはしたくない。別の時代感覚を持ち込みたい。デコラティブなものを合わせたいところだけど、それを受け容れるスペースは全然足りない。
人が座れるという仕様である以上、サイズとしてはそんなに差はないはずなのに、存在感や圧迫感を意識させるのは何なのだろう?物理的にも記号的にも目立ちすぎず、存在を「消す」のでもなく、元からそこにあったように、そこにいることが必然であるように存在していてほしい。その輪郭が周囲の環境に溶けていくような、それでいて、のっぺりすることなく背景と前景のコントラストが際立つ奥行きを感じられるようなオブジェから空間を構築していきたい。温度や表情を感じていたい。 Thomas Serruys (トーマス・セルイス)の SPC Chairは、一目見た時から、ラフさの中にどこか漂う崇高さのアンビバレントなバランス感に魅せられていた。手作業で施されているという亜鉛メッキのランダムな模様が、独特の光の反射を呈し (後日訪れたジャン・プルーヴェ展(東京都現代美術館)で展示されていた椅子の中にも、とても類似した模様を発見した)、見た目以上に座り心地もよくて (正直どの椅子に座っても結局腰痛になるので、ひとりの時はクッション敷いて解決というので、椅子の選択肢を広げてる) 、ひんやりとした金属の質感に身を委ねると、椅子や素材と一体になっていくような気がする。
金属=衛生的というイメージがもたらす安心感が、withコロナに付随するあらゆるストレスを浄化してくれるような気がするのも、 ヘアブラシと同様に、金属性のものを選ぶ理由になっていることは否めない。 金属といってもスチールの重い感じではなくて、ステンレスの繊細さ、アルミの軽さ、錫のような柔らかさが今の気分。
Muller van severenのALLTUBE chairは廃盤になってしまっていた。(表参道を通るたび、BALENCIAGAの什器を見て指をくわえて見てる)ダイニング一式揃えるとしたら、ポルトガルの地元のブラッスリーで使われている椅子にインスピレーションを受けて作られたというアルミ製のFRAMAのTasca Chair がいいなと候補にしつつ、さすがに座ったことのない椅子を個人輸入する勇気はない…

そういえば、木=温かいというイメージはどこから来るのだろう。金属や石のように冷たくないから?有機物だから?実体験として記憶にある人はほとんどいないはずの伝統的な日本家屋の風景が日本人のDNAに焼き付いているから?焚火など「火」を連想させるから?はたまた、温度というよりも森や木そのものに触れたときの湿度の方が触覚を喚起するから?「木」は最もプライマリーな素材であると同時に、最もハードコアでもある気がして、なかなか難しいけど、トーマス・セルイスの椅子を購入したObjet dʼ artの展示でも紹介されていたGREEN RIVER PROJECT LLC の木や竹の家具はやっぱりいい。
先週もRadikoでオードリーのラジオを聞いていた。若林の「映画の試写会で、手を振ってキャーとなってるあの感じがなんかモヤっとする」理由をめぐってああでもないこうでもないとトークをしていて、CM明け放送作家の一言で腑に落ちる理由が見つかったと同時に「言語化したらすぐ終わるね」と。すぐに言語化して、共感したり、納得したり、論破したりすることで、加速するコミュニケーションは豊かさに向かうのだろうか?
言語化するスキルはあるに越したことはない。すぐ言語化できた方が生きやすいに決まってるけど、できるから即やらなきゃいけないものでもない。すぐ終わらせない、何も起こらない逃避場所としての弊ブログ…