Review: Architecture where the vanishing point(s) disappear

アンドリウス・アルチュニアン展評:消失点の消失した建築。

「建築は凍れる音楽である」―ゲーテ

ル・コルビュジエは「音楽は動く建築である」と語る。
現代音楽家としても活躍したヤニス・クセナキスと共に設計した、ラトゥーレット修道院では、音楽を図形的に視覚化することを試みた。また、現代建築家のダニエル・リベスキンドは、音楽家としても活動した自身のバックグラウンドを綜合させるように、作曲法のひとつである「トータル・セリエズム」を建築の設計手法に応用した。

このように、音楽と建築の関わりは深く、近現代建築においても、数学的あるいは図形的な解釈としての応用がなされてきたが、アーティスト/作曲家であるアンドリウス・アルチュニアンの個展「Obol」から、音楽としての建築、或いは「凍れた建築」にテクスチャを取り戻す音楽の可能性について探索してみたい。


セドナ、アンラ・マシュ、ミクトラシワトル、ヘル、エレシュキガル、閻魔王、アラウシ、スパンダラメト、ヴェリナス、ヘカテ、ネフティス、スーペイ、五官王、ア・プチ。神々の名前が並ぶ。呪文や解読不能な暗号(crypt)のように、指の間からこぼれ落ちていくように。セドナ、アンラ・マシュ、ミクトラシワトル…聞き覚えのある神もそうでない神もいるが、共通するのは、すべて冥界を司る神であるということ。世界遍く、天上の神と同時に、地下の冥界の神が存在する。オルフェウスとエウリュディケ、イザナギとイザナミのような共時性(synchronicity)。光がなければ闇はなく、死がなければ生はない。下がなければ上もない。地下世界(underground)が消えるにつれて、生気の無さが漂う虚ろな地上の都市空間。地下に対位するものは地上ではなく、天上なのかもしれない。そのどちらも欠いていながら、その狭間にある地上(現世)で存在することの耐え難さ。

それに、現生がどうであれ、死後は皆安らかに。何も共有しない者たちが、冥界やそのイメージを無意識で共有しているのだとしたら。天上の神々や英雄を中心とした物語を転覆させ、周縁化されてきた冥界の神々の側から、既存の(ステレオタイプな)規範やアーキタイプ(元型)をクイアしながら思索される、天上でも地上(現世)でもない、現世と同期しながら(sync)進行する、もうひとつの世界(alter world)。

天変地異(Force Majeure/ Act of God)。
そう嘆くだろうか。天上と地下が反転した世界では、高いものは低く、低俗なものは高貴なものに、悪は善で、タブーこそ秩序?地上のアゴラは「冥界のレイヴ」空間に。いつも悲劇な英雄譚が、喜劇の冥神譚に取って代わられるとしたら、なんと楽しい世界なのだろう!

古典建築では、柱の形式そのものがオーダー(秩序)として、地上都市の基本単位を築いた。ギリシア神殿を中心に、法、取引、都市国家の基盤が築き上げられた世界の鏡像のように存在する(した)かもしれない地下世界の建築には、どのようなアーキタイプ(祖型)、ボキャブラリー、そして形而上(形而下)的なオーダーや儀礼が存在するのだろうか。垂直の柱ではなく、やがて消失点へと収束する地平でもなく、地上と地下とを蛇行しながら浸食する地下水脈のように、閾を超越して習合していくシンクレティックな(syncretic 混淆)世界を覗いてみたい。

地下から湧き上がる黒色のビチューメン[瀝青]が、地下(冥界)と地上(現世)を媒介する。その静謐な鼓動(beat)に誘われ、粘性に絡めとられ、拐われてみたい衝動に駆られる。瀝青は、古代エジプトでは、ミイラを包む神聖で高貴な素材だったという。日本書紀に記される「燃ゆる土」はビチューメンだったのだろうか。石油由来のアスファルトの一種であるこの素材は、今や防水材という陳腐な素材として誰も気に留めることはないかもしれないが、内と外の「界面」であることには変わりがない。「石油」由来であるということが、会期中にこれほど特別な意味を帯びることになることは想定外だっただろうが、その物質の背景には常に、採掘主義(エクストラティビズム:Extractivism)の問題が影を潜めている。

現代社会における内と外の問題は、物理的な境界というよりも
ワークとライフの2つの領域のせめぎ合いとして立ち現れる。
社会的人格ペルソナとしてのinnieと私的領域の「影(シャドウ)」としてのoutie。
どちらがinnie(イニィ)でどちらがoutie(アウティ)?
innieとoutieを分離[severance(セヴェランス)]することによって
愛する者との絶望的な別れを乗り越えようとする人たち。
しかし、自分の中にある複数の人格を完全に分離することなど本当にできるのだろうか?
定時の仕事を終えてoutieに戻るたびに、孤独に苛まれトラウマが再演される。
innieとoutieは時間(定時内/外)とその記憶を完全に分離されているにもかかわらず、
リミナルなワークスペースで仕事に没頭すiInnieに、outieの記憶がサブリミナルに忍び寄る。
innieにoutieが接近する瞬間、分離の整合性が崩れる。
閉ざされたはずの空間から、黒色の粘性の物体が漏れ出してくる…
「定時」という時間感覚で人間を管理すること自体が、近代資本主義の歪みでもある。

Apple TV「セヴェランス」

瀝青で覆われた柘榴が祭壇(alter)に並ぶ。生きたまま冥界に閉じ込められた柘榴は、死を意味するのか、それとも永遠の生を意味するのか。冥府で柘榴を食べてしまったペルセポネは、完全には地上の世界に戻ることができず、地上と冥界を往来することになった。甘い果実の誘惑。優柔不断。傷つきやすさ。そうではなくて、彼女の意志で齧ったのだとしたら。母を殺さず、家父長制に殺されず。誰かに所有されること、誰かと結合することでしか存在できないとされた娘の構造を「破壊するもの」 — ペルセポネ。意識と魂(プシュケー)をもった個々の自由な存在として、瀝青の被膜を赤い果汁が突き抜ける《Breakfast at Persephone’s》。

You know those days when you get the mean reds?
The mean red? You mean like blues?
The blues are because you’re getting fat or maybe it’s been raining too long.
You’re just sad, that’s all.
The mean reds are horrible.
Suddenly you’re afraid and you don’t know what you’re afraid of.

―Breakfast at Tiffany’s

あなたにも気持ちが赤く沈む事があるでしょ
赤く?青くだろ
それは中年すぎた雨の日の単純なユーウツよ
私は赤いの つらいわ
原因不明だし
そんな経験ない?
ただ悲しいの、それだけ。
イヤったらしいは恐ろしいわ
突然怖くなって でも何が恐ろしいかわからないの
―「ティファニーで朝食を」

色。

はじめて空間に音が再生された時、此処にありながら何処でもない見知らぬ空間が引き込まれてくるようだった。断片的に侵入してきたその音は、その振動は、衝動を与えながら過ぎ去っていった。既視感(déjà vu)の中で、訪れたことのない、見たことのないはずの建築に、この耳で確かに触れたという衝動。囁き、愛撫、遠くに聞こえる誰かの足音。この建築はどこかに存在する(した)のだろうか?幽かな記憶が残像のように脳裏で反響する。ふたつの音が対位されながら、波長の重なりによって、物理的なヴォリュームや領域を超え[trans]、空間や時間が増幅されていくポリフォニックな音楽、そして建築が立ち上がる。

何者かも知らず、何を話しているかもよく聞こえず、でも耳元の囁きを共有する者だけの親密な空間。次々と立ち現れては消えていく、エフェメラルなスウィート・スポットとしての窪みを夜の空間や闇は作り出す。

ここで囁かれるのは、かつてアルメニアのフェルト職人の間だけで共有された言葉。忘れ、消し去られ、誰もそれを話すことができない。その周縁化された声が、誰かの身体を通して再生される讃歌(アンセム)と共に、冥界からの神託《Chyron》が告げられる。赤い線(赤線:red light)。血、穢れ、魔除け、そして古代は弔いの色でもあった赤。

フェルトといえば。
ヨーゼフ・ボイスが戦時中に乗っていた飛行機がクリミア半島で墜落し負傷したとき、遊牧民のタタール人に助け出され、脂肪とフェルトで体を包まれたおかげで生き延びることができたという逸話は、ヨーゼフ・ボイスの自己神格化してあまりにも有名だ。ボイスはジャック・デリダが唱えた「エコノミメーシス」という概念を引用して、資本を批判するために資本を模倣する作品を制作した。
参考:https://artnewsjapan.com/article/67558

Chyronはテレビの画面下部にインスタントに現れては消えるテロップの業界用語のことである。多くの現代人にとって、神託(お告げ)はもはや神からではなく、目の前を絶え間なく過る広告や真偽のあやふやなヘッドラインによってもたらされる。神や神話にまつわるモチーフは、ブランドを冠する名前として、あるいはそのロゴとして、私たちの欲望を掻き立てて暇がない。有象無象のアイコンが信仰される。神は、あらゆる形態に転生し、不死身を手に入れながら、同時に死んでいる。資本主義に取り込まれ、仮死状態に陥った神々を横目に、もうひとつの「キャピタル(首都/資本)」として、冥神が司る世界を思索する。自らの苦痛に耐え兼ね、不死身を投げ出して自ら死を選んだ英雄Chironケイローンの仕業だろうか?(もっとも現代のキャピタリズムを司る人々の関心事といえば、もっぱら不死身を手に入れることらしいが。)

鏡の間に閉じ込められ、位相が揃えられた電子の放出としてのレーザー光線が現す文字は、光の残像を脳内で繋ぎ合わせた幻影を見ているに過ぎない。記述されることなく消失し、その空間を共有した人の記憶にしか残らなかった、そしてもはや誰も話すことのできない言語(language)の残響。私たちが現実世界で見ているもの、聞いている音が真実で、幻影としての言葉や残響としての声が虚構だと誰が言えよう。

「合理的共同体が登場する以前は、他者との、侵入者との出会いがあった。出会いは、人が他者の要求と異議にたいしてみずからを曝すときにはじまる[…]このもう一つ別の共同体は[…]幾度となく姿を現し、合理的共同体の分身として、あるいはその影として、合理的共同体を攪乱するのである」
引用:アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(pp.27-28)

《Chiron》と空間的に対位され、ポリフォニーを奏でる《Now We Rise and We Are Everywhere》。

初めて教会に足を踏み入れ、侵入者のような気分になりながら、パイプオルガンの響きを聞いた時の記憶が蘇る。和音(harmony)と不協和音(dissonance)の狭間に宙づりにされるような緊張感と親密さ。地上のカトリック(catholic)の音楽に対して、地下世界の(chthonic)トランス音楽。その音の波が、肌の表面をそっと撫でるように、身体の周りに、身体を包み込むように空間を立ち上げる。そのオリジナルのトラックを象徴する高い波長は消し去られ、重低音だけが引き延ばされ、無限を指向するかのような持続音(drone music)の円環的なリズムに閉じ込められるように、催眠的に身体が空間に沈んでいく。夜の闇に堕ちていく孤独と夜の闇に包まれる安堵の二重性。暗闇と閃光の狭間で消失点を失ったレイヴ空間では、音が身体に浸透し、身体が音に共鳴しながら、閾を超越(トランス)していく。

モートン・フェルドマン《バニータ・マーカスのために》を初めて聞いたある夜を思い出す。
粗野なコンクリートの静謐な建築の幻影が浮かび上がる。
ピアノの一音一音が柱のように空間に配置されていく。
柱は立ち上がるのではなく、下りてくる。
柱間に挿し込む薄光だけを頼りに、
曲がり、上り、下る。消える、そして現れる。
スローモーションのウォークスルー映像のように歩みを進める。
全体像の把握できない回廊のような空間。

アルド・ファン・アイクの「子供の家」

湾曲した地下鉄のプラットフォーム
通学路の煤けた煉瓦のトンネル
過去と未だ見ぬ記憶を繋ぐ

しかし、ここにあるのは、どの建築とも違う。
そうではない何か。
常に移ろい、消えゆく、そして現れ続ける
消失点を失ったどこか。

眼下には、今にも流れ落ちそうなビチューメンが弧(arc)を描きながら留まっている。直線的で加速度的な時間の流れに抗う粘性としての歪み[viscosity]。死者を冥界へと誘う渡し舟《Black Lagoon》は、それ自体が、ステュクス河―現世と冥界の間に横たわる領域を写し取ったかのようだ。或いは、今まさに怪物を殺めようと天に挑む英雄ヘラクレスの弓矢の位相を反転させるようにも見える。舟は、此方から彼岸へ向かうのか、あるいは彼岸から此方に誰かを迎えに来たのだろうか。

ヘラクレスの英雄譚を反転させるとしたら?

古代ギリシアの詩人ステシコロスは、神話上ヘラクレスに殺される怪物ゲリュイオンの視点でヘラクレスの英雄譚を語り直した。その叙情詩『ゲリュオン譚』をもとに、アン・カーソンがゲリュオンの自伝としてヘラクレスとの出会いと別れと再会を描いた小説『赤の自伝』が参照される。翼のある赤い怪物であるゲリュイオンとヘラクレスのロマンスは、怪物対英雄としての関係ではなく、どこかとても人間味の溢れる、兄弟や恋人の間での微妙なパワーバランスのように描き直される。ステシコロスは「言葉は存在を解放する」と記す。言葉によって解放された存在が、純粋な「生の衝動」としてのエロティシズムとして、セクシュアリティをも超越したクイアな関係性が描かれる。そうやって、誰かと絡み合うことでしかこの世界に留まることはできないのかもしれない。

空間を赤く染める《Geryon & Herakles(ゲリュイオンとヘラクレス)》

重低音は床をすり抜け、光はファサードを透過し、越えられないはずの領域を侵食していく。

シンクレティックな冥界の世界。その断片を覗かせる7枚の祭壇画(Polyptych)《They Tried to Count Us》。パースで規定された絶対的な視点ではなく、洛中洛外図屏風のように平行に視点を移動(トラック)し、そこに描かれる市井の空間を局所的に拡大(ズーム)するように、有象無象の図像が現われる。ビチューメンが塗られ、光沢を湛えたその表面には、それをまなざす鑑賞者と、その背後にあるガラスブロックのファサードを映し出され、壁の奥にもうひとつの空間を浮かび上がらせていく。決して乾くことのないビチューメンは、知覚できないほどゆるやかな速度で動き続けながら、自然光の移ろい、映り込む鑑賞者の身体の動き、音の振動と共に、動かぬ図像に生を与えていく。ビチューメンは気体と液体と固体の間を往来する。外と内を隔てる建築の被膜としてガラスも、固体でも液体でもない物体だったことを思い出させながら、確と動かないはずの建築が動き始める。

それでは、冥神が司る世界の建築とは?
冥界の柱(オーダー)と柱頭(キャピタル)はどのような姿をしているのだろうか。
永遠なる完璧な円(幾何学)から、刹那的な非ユークリッド幾何学へ。
白いマッスから、黒い空:ヴォイドへ。
柱(オーダー)は、《Now We Rise and We Are Everywhere》の2台のスピーカーのような形態をしているのだろうか。

しかし、そこにはもう柱も柱頭も必要がない。オブジェクトとしてどうあるかは、もはやあまり重要ではない。空気の密度を操り、テクスチャを与え、既存の空間に別の空間を自由自在に侵入させながら、冥界の建築は遍在する。既存の空間を攪乱させるノイズとしてのテクスチャ。しかし、それは知覚できないほど微かな…。

空間に微分音の振動を与えるような素材、音、動きのテクスチャが、周縁化されてきたノイズを、既存の空間に取り戻す、或いは侵入させるための襞をつくる。乾くことの無い、流れや波だけが、真のポリフォニー的な建築となることができるのではないだろうか。

“She is a phony, but it’s real phony.”
「彼女はみんなニセモノだ。でも真のニセモノだ。」
オードリー・ヘップバーン扮する娼婦まがいの生活をするホリーに対して、そのパトロン弁護士はそう言う。

-phony: 音; 声
Phony: ニセの
私たちも真のニセものたちであって、この世界はその声たちがざわめくポリフォニーなのだろうか。

冥界の建築とは、誰かの絶対的な視点である「パースペクティブ」という消失点に還元されることのない建築なのではないか。消失点が消失するということは、消え続けると同時に現れ続けることを意味する。確固たる建築ではなく、消え続け、現れ続ける場だけが、何も共有しないものたちの居場所になるのである。

シャロン・エイアール&ガイ・べハール「Jackie」のドッペルゲンガーに遭遇するような催眠的な時間。
暗闇の中に、幻影のように浮かび上がるダンサーたちの身体。10人、20人、一体何人いたのだろうか。
それぞれの肉体が自律的に動き、その中にしかない動きのテクスチャを空間に与えながら、混沌であり秩序を生み出す。ダンスの根源的な風景を見る。
それぞれの身体は、それぞれの分身のように縺れ合う…
本作は、「双子」をテーマに制作されたという。

さて、冥界へと向かう準備はできた。7枚の銀貨《Grave Goods》を携えて。
タイトルの「Obol」は、死者が冥界の川を渡る時、渡し守Charon(Kharon)カローンへの渡し賃として、古代ギリシアで死者の口に含ませたという銀貨のことである。
現代の鏡としてこの冥界があるとしたら、そこでの取引はどう行われるだろうか。
《Grave Goods》のモチーフは、アーティストのルーツであるアルメニア・コーカサス地方の山岳風景を捉えたアルチュニアンの過去の映像作品《End Pull》(2024)から抽出されたものだといい、それぞれ微妙に異なっている。ひとつの風景も、無数の異なるテクスチャをもつミクロな風景の集合体であり、動かぬように見えて、サブリミナルに変化し続けている。冥界の神はきっと、寛大さとユーモアを持ち合わせて、あらゆる銀貨のようなもの(ミメーシス)を受託してくれるだろう。

しかし、数のカウントには非常に厳格であるかもしれない。

7、77、777、77777、77777777777…

―――

Obol
アンドリウス・アルチュニアン展

https://www.hermes.com/jp/ja/content/343162-mgeditopagearticleforumf73

会期:2026年2月20日(金) ~ 2026年5月31 日(日)
会場:銀座メゾンエルメス ル・フォーラム 8・9階
キュレーター:岩田智哉

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