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The Guide to See the World from Trivial Matters to Luxury Objects

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Flash report of @labiennale 🇩🇪 stunning ins Flash report of @labiennale 🇩🇪

stunning installation of @henrikenaumann and @sungtieu 

"In Ruin"
by HENRIKE NAUMANN and SUNG TIEU

Architecture, not only its exterior but also its interior, is a medium that records the violence imbued within it, implying at the systems behind it and laying the absence that can never be filled.
A discreat yet radical critique of the history of relentless war.

まず外観に戸惑う。廃墟の落書きのような、でも乱雑さというよりも、静謐な緊張感に包まれる。ソリッドな建築は、ドイツの機能主義的でもあり、あたかも元々そういう建築であったかのように錯覚しそうになるけど、ドイツ館はもともとは古典主義的な外観をしている。1938年のナチス・ドイツ時代にエルンスト・ハイガーの設計によって改築された「ファシスト」的な建物を、アーティストのSung Tieuが、東ドイツ(GDR)のプレハブ式の社会主義住宅に1/1スケール(原寸大)で置き換えていく。300万枚以上のモザイクタイルによって。そこは、ベトナムにルーツをもつ作家がかつて住んでいた外国人契約労働者向けの最大級の住宅団地の一つであり、現在は取り壊しが予定されているという。記憶がまたひとつ消えていく。

モザイクタイルは古典的な装飾というよりも、近現代の都市空間を覆うそれを想起させ、妙なリアリティで迫ってくる。名もなき人々の痕跡は、その身体もピクセル画のように抽象化され、やがて消滅していくような。

また、内側の壁面は緑色に塗られており、上方のスリット窓から覗くその色(光)にも不穏な空気が漂う。後日訪れた
「CANICULA」で展示されていた、Roman Khimei and Yarema Malashchuk《Wishful Thinking》(注1)の展示室の緑色のブラインドも同様に。あのミントグリーンの色はソ連の「共産主義的」な何かを喚起させる。その時代、文化圏に生きていなくても。建築に染みついた記憶、不在について考えずにいられない。

緑色の壁の部屋、入り口入ってすぐの展示室にはヘンリケ・ナウマンの作品が展示される。家具、カーテン、道具など、ドメスティックな風景に、時代背景というのは無意識に投影されていく。「ヴィンテージ」や「ムード」として手にされ、消費されているデザインアイテムの背景に潜む歴史…

両サイドの展示には、SUNG TIEUの彫刻作品が展示される。壁に並べられたアルミニウムの棒も、床に置かれた半円形の窪みをもつ一対の棒も、暗号のような、素材感も相まって拘束具や解剖台のような冷徹で不穏な空気が漂う。反対側の展示室には、身体の一部を象ったガラス彫刻が展示されるが、いずれも作家自身あるいは作家の母親の身体から模られており、スケール、計測という技術が、人体の拘束、処罰、管理に使われてきた歴史について、問いかける。

アカデミア美術館で行われていたアブラモビッチの個展では、様々な自然鉱物に身体を押し当てる観客のインタラクションを求める作品が展示されていた。自発的なキャリブレーションへと誘う窪みと、型に嵌めるための窪みと…

(注1) ロシアによるウクライナ侵攻がすでに終結した架空の未来を舞台に、高齢のロシア人兵士たちが、自らの役割や責任について後悔したり、隠蔽したり、あるいは無視したりする姿が描かれるマルチチャンネルの映像作品。ソビエト時代のウクライナの劇場でロシア文学や演劇の登場人物を演じることでキャリアを築いてきたウクライナ人俳優たちが演じる。
Flash report of @labiennale 

「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」🇯🇵
荒川ナッシュ医
@japanfoundation 

オーストリア館に続き「赤ちゃん抱っこしたい」というお客さんが大行列をなす日本館。なので、むしろパフォーマンスの時間の方がすんなり入れて、パフォーマンスを見ることができた。

パフォーマンスは、子どもをあやしながら家事する時のようなカオス?の中で行われて、それはそれでリアリティがあってよかった。それぞれの赤ちゃんは、親を疑似体験するためのベイビートイではなく、それぞれ日本と他国をめぐる様々な歴史的背景を背負うルーツをもって生まれたという設定になっている。そういう背景に基づくそれぞれのアイデンティティや性格は、直接的なかたちではなく、占い師の石井ゆかりさんのポエティックなテキストで添えられているのだが、私が見たパフォーマンスでは、その文章を読み上げていくことがメインのようだった。(会場にもプロジェクションされているが、一体どのくらいの人がそれを読んでいるのだろうかという感じではあった)

パフォーマンス最中ずっと膝の上で、赤ちゃんを抱えている人。途中アーティストやパフォーマーから自身が抱っこしていた赤ちゃんを預けられるので、観客でかわりばんこしながらお世話するように赤ちゃんが回ってきて、私も抱っこすることになった。

展示では、赤ちゃんを抱っこすることだけではなく、おむつがえも体験できるのだが、女性はまあ慣れた手つきで、よくも悪くも深い意味なくやっているように見えるが、男性の方がむしろ貴重な、新しい体験に触れているように熱心に取り組んでいる姿が印象的だった。

アーティストステートメントには、赤ちゃんを抱っこしなくてもよいとか、生殖をめぐるあらゆる考え方や事情に対する配慮的なものがちゃんと書かれているのだけれど、お客さんの方はというと、そういう葛藤など一切ないかのような赤ちゃんハッピームードに包まれていてばつが悪い。

世界中でたくさんの赤ちゃんが殺される中で、赤ちゃんを抱く、つまりその重みを感じながら「もつ」ことで、たとえ自分の子どもでなかったとしても、その命や、その子が背負う運命というものを「わが子のように」親密に想像することを目指しているとは思うのだが、なんというか子どもを「もつ」ことと「産む」ことには埋めようのない溝があるように感じてならなかった。

赤ちゃんは4カ月の月齢の体重だそうだが、先日抱かせてもらった友人の赤ちゃんよりずいぶん重たく感じた。アーティスト自身の子どもの4カ月の時はこれくらいだったのか、平均的な重さなのかはわからないけれど、乳幼児は特に成長のスピードがバラバラなはずなのに、個体差がない赤ちゃんというのが不気味さを増している。同じ重量でも赤ちゃんや動物を抱っこする時と、米俵(もの)を持つ時とでは重みが違うことがある。抽象的な意味では動物の方が重いのだが、物理的にはものの方が重く感じられることがよくあるが、それは向こうから歩み寄ろうとする力:信頼がないからだ。ごっこ遊びの延長にリアリティが手繰り寄せられるのか、ごっこ遊びで留まってしまうのか、難しい。
Flash report of @labiennale 

“SEAWORLD VENICE”
Florentina Holzinger

「裸体の女性の過激なパフォーマンス」的に各メディアのヘッドラインとして取り上げられているので一番の大行列。

入口ではクレーンに鐘が吊られている。鐘を鳴らす「舌」の部分は、裸の女性がその役割を担い、身体を左右に打ち付けながら鐘を鳴らす。(鐘の部品の各箇所に体の部位の名前がつけられているのも面白い)鐘を吊るワイヤーの太さ、鐘の金属の厚みに、どれだけ身体を痛めつけているのだろうと、どう見て良いのか躊躇う。ほとんどの観客はといえば、完全にスペクタクルとしてただ見ているようだが…

並んでいる間、右側の棟の屋根の上に、金色の天使の風向計がゆっくりと回転するのが見える。しかし天使は異様なポーズで、両足を背中から頭の前にもっていくようなヨガのポーズ?あるいは中国の雑技団、peeping tomのダンサーの驚異的な身体を思わせるというか。

天井付近のスリット窓から、その内側にも裸の女性の姿がかすかに見える。ようやく中に入ると、屋根から床までポールが降りていて、3人の裸の女性と、裸婦像のブロンズ彫刻が垂直に並ぶ。ポールダンスのように重力に抗う動き、読書しながらうたたねするように静かに佇む(高齢の)女性。天に上る天使ではなく、天から地、水へとエネルギーが収束していく。「女性主導の『キリスト降架』解釈としてのモニュメント」と記されている。

左側の展示室は、プールでジェットスキーをまた裸の女性が乗りこなすパフォーマンスが行われる。実際ヴェネチアもこれくらいの密度でボートが行き交っているのではないかというくらいラグーンを人間の活動が荒らしている。疲弊、タンポンのリアリティ。

〈若く美しい裸の女性〉として描かれるニンフの水浴びのような、家父長的で、牧歌的な視点でまなざされる風景をフェミニズム的視点で描き直すように、現代社会のシステムやエコロジーに警鐘を鳴らす。

2つの展示室の間を通り抜けた中庭に置かれた水槽にも裸の女性が「展示」される。水槽の下に置かれた大量の循環装置、左右に並ぶ仮説トイレ、ガラス越しに見える機械室に、水のエコシステムが見えてくる。

水に囲まれ、水位上昇の危機に晒されるヴェネチアで、「私たちが数えきれないほどのサイクルの中で飲み、排泄する水」をテーマに、来場者の小便から再生した水を居住空間として女性たちは生き、そしてゴミや汚物を処理する「掃除婦」として女性たちは働く。純潔と汚染、罪と贖罪の二重性。

「浄化(cleanse)ではなく対峙(confront)するために、汚物(piss)を召喚しなければならない」

「I LIVE IN YOUR PISS」

私もトイレでお小水してきた。

制御不能に陥った下水処理施設、人間(パフォーマー)不在の間も絶え間なく動き続けるロボットの犬。「フランケンシュタイン的なディストピア」とキュラトリアルステートメントには記される。

他のお客さんがスタッフ(も掃除婦役のパフォーマーなのだが)に尋ねていた質問を漏れ聞くに、下水処理のタンクから溢れ出す水は実際の汚水では(ほぼ?)ないようだ。ここが彼女たちの「労働」の場だとしたら、糞尿にまみれるような環境では働かせられないだろうと冷静になると思う。リアリティとフィクションがひとつの機械のシステムの中にも共存している。

時報としての鐘の音を4回聞いた。3時間待って、1時間見た。しかし、見る側もそれくらい(行列に)身体を拘束されないと、彼女たちの肉体労働に見合わないのではないかと、もし何の我慢もせずに見たら感じること違っただろう。鐘も外側から見るのと内側から見るのでは違う。身体を酷使するパフォーマンスではありながら、どう身体を守るか、ケアするか、それが見えないと、「見る」ことができなかったと思う。
Flash Report of @labiennale “IT NEVER SSST” Flash Report of @labiennale 

“IT NEVER SSST”
Miet Warlopによる展示とパフォーマンス🇧🇪
@miet_warlop 

部室と部活動を覗き見るような空間。パフォーマンス開始の11:30の10分頃には到着していたが、中に入れず、中の観客も見えないので、「部外者の立ち入り禁止」みたいに締め出されて外から見るものかと思って眺めていた。開口部からはとても断片的にしか見えない。

しかし、定員があって、誰かが出たら、誰かが入れるシステムで、ようやく終盤に中に入れたら30人くらいの人が見ていた。

石膏型で作られた文字の断片が、『IT NEVER SSST』の楽譜として、コンクリートポエトリーのように並べられていく。プロテストのように持ち上げられたり、ボールをリレーするように運んだり、大声の掛け声とドラムを激しく打つ音。叩きながら破壊するパフォーマンスなのかと予想していたが、何度も何度も何度も運ばれて置かれるうちに壊れていく。ヒビが入り、壊れかけるほどに、単なるオブジェとしての石膏の文字に、言葉に血肉が通うように感じられる。

パフォーマンスの両脇にはアトリエが設けられており、片側は石膏アトリエ、もう一方ではこのパフォーマンスの瞬間をレリーフ絵画にする作業が行われており、美術部、音楽部、バスケ部が一堂に介したような課外活動的オルタナティブ?のエネルギーに満ちていた。
建築コレクティブ @ultrastudio_jp による 建築コレクティブ @ultrastudio_jp による「上原坂道の住宅」。

🔗下りたり、登ったり、回ったりしながら、段々と住宅空間に、そして都市に、身体が浸透していくような建築体験の備忘録。
毎年、何かの体調不良にハマってしまうお年頃になってしまいましたが、去年は背中の痛みがマイブームでした。理由は明らかで、仕事してる時に息してない、胃痛が背中に響いている、ということなのですが、左右差にムラがある痛みは拗らせていて厄介らしい。 

去年は、停滞感や無力感に苛まれることの連続で、無理矢理ポジティブ変換するとしたら、棚卸と整理の年だったと思う。年末駆け込んだ初診の鍼灸院で、開口一番、来年の目標は「脱力」ですねと言い当てられてしまう。子どもがヤダヤダとごねる、あの動きが最も身体の力が抜けるらしい。力を抜くというのが一番難しい。力が抜けてリラックスした状態をイメージする時、いつも馬の「砂遊び」のしぐさを思い出す。干支にちなんだグリーティングには、今年は絶対に砂遊びをテーマにしようと決めていた。

年末最後の方の英会話のレッスンで、人の気質を表現する語彙集みたいな課題があって、ケチにも色んな言い方があるんだなぁとか、面白かったのは「Down to earth」というイディオムで、字面から想像に難くない「地に足の着いた」という意味だけではなく、その本質にある「落ち着いた/ 穏やかな」人という意味があるらしい。
日本語にしちゃうと、なんだか従順な雰囲気になっちゃうけど、ハワイのオーガニックスーパーDown to earthのちょっとヒッピーなムードで、2026年は脱力して行きたいと思う〜

🔗抽象度の高い新年の目標
自然の美しさは完璧であればあるほど、逆に人工的なものに見えてくる不思議…

The more perfect the beauty of nature is, the more artificial it looks. It's a Mystery.
旅を振り返ることもままらないまま日々は過ぎていく…今年も夏が終わる。昨年のカルティエ財団 @fondationcartier でのBijoy Jainの展示もずっと頭の片隅にある。

足を踏み入れるとまず、土の香りに誘われるように結界が立ち上がり、薄膜のような土のカーペットには、思わず頬擦りしたくなるような親密さに包まれる。

土といえば、荒々しさや重たさがイメージされるが、ここでは、土の素材感や物量感に覆われているというよりもむしろ、空中に幾何学を描く竹のモビールや、ゆっくりと時を刻むように揺らぐ釣鐘の浮遊感に、重力よりも無重力へと意識が向かう。

生の土、焼かれた土など、デリケートな手つきで土の機微を読み解くようにその複数性が紡ぎ出されながら、土は空気や水として昇華していくかのような空間に、石は動物の似姿として現れ、繊細な竹の儚げな構造が自然の秩序を作り出す。その構造に差し込まれる赤と青の線は、楽譜のように時間を奏でていくようだった。

五感に直に触れるような生の瞬きに溢れ、マテリアリティを強く意識させる一方で、どこか絶対的な「不在」の漂う空間。素材の宿す不可視のエネルギーが、そこにいる人それぞれの想いや祈りのようなものと共振しながら、第六感にまで響き渡るように。その不在の空間を満たしていく…

展覧会の図録は、サイズも重量もヘビーで持ち帰れそうになかったし、というよりも何かここで得た体験と違う気がして、ブックショップの参考書籍コーナーから、ビジョイ・ジェインのインタビューが掲載されたアート・マガジン『See All This #32』 @seeallthis を一冊だけ持ち帰った。そこでは、建築家になる前は遠泳の選手だったこと、家族や友人、大切な人たちとのあまりも突然の別れの場所としての「家」の記憶などが語られる。

素材の粒子にまで神経が行き渡る建築。それを指の先で捉える微細な知覚から、壮大な世界へと視界が開けていくような、その独自の建築の身体性の背景には、人間の力など到底及ぶことのない大海原に漂いながら、肌身で覚えてきた感覚と孤独があるのだろうと考えたら合点が行った。

家について、彼はこう語る。'Home is where affection resides'. (家は愛着が宿るところ)また本誌の担当編集者がインタビュー記事の見出しに添えたdomain[領域、領土]というキーワードがずっと頭の中で残響のようにリフレクションしていた。

家や建築は、屋根と壁があって風雨を凌げるという必要条件や、個別の所有物property[財産]である以上に、愛着が及ぶ範囲domainを含む概念であるとしたら。誰にも壊されることも、奪われることもない居場所、故郷としてのDomainは、どう築き、そして守ってゆくことができるのだろうか。

"Imagine for a moment sweeping the floor of your houses with your eyelashes. (...) Home is just that one and only place where your eyelashes can touch a surface. It's this deep intimacy that, to me, is the measure of well-being."
(自分の家を、まつげで掃くとしたら。そんな瞬間を想像してみてください。(中略)家とは、まつげが触れることのできる唯一無二の場所です。そんな深遠な親密さこそ、私にとっての「ウェルビーイング」の尺度なのです。)
山梨の果実で満たされた冷蔵庫。mirab 山梨の果実で満たされた冷蔵庫。mirabelle(スモモの一種)ジャムの空き瓶には塩レモン。いつ漬けたのか記憶にないほど時間が経ってしまったけど、塩漬けはすごい。古からの保存術、人間の技はすごい。

空間はあればあるほどいい。冷蔵庫の中も…
埋め尽くしたい、埋め尽くされたいという欲求ではなくて、たくさんものがあってもまだ余裕があって欲しい。
溢れるものや情報を扱うとき、アーキビストというより、猛獣使いのような気分にいつもなっている。
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(C)2021 OUT OF THE SCALE
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